私も指をさされている。|『プロミシング・ヤング・ウーマン』感想
※本記事には、映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』と『ラストナイト・イン・ソーホー』に関する重大なネタバレが含まれています。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』、上映当時に映画館に観に行ったきりなので、すでに記憶があやふやだけれど、どこにも書くところがないし、思い出したのでここでお焚き上げする。
作品は素晴らしかったと思う。そして、良い作品であるからこそ、内容にショックを受けたし、時折本作が「痛快」と評されていることに、二重にショックを受けた私がいた。(※大前提として、人の感想はそれぞれだと思うので、痛快だと思った方もそれで良いと思います。念のため)
分かるよ。最後のノートの印の意味が回収される瞬間の鮮やかさとか、復讐していく時のキャシーのキレのある返しの気持ちよさとか、分かるよ。音楽も画も良かったよ。エンタメ性が高いとも言われる所以は、このこだわりが伝わってくるからなんだろうな、って、思うよ。
でも、エンタメ性や痛快さよりも、私は「痛さ」が上回ってしまった。こんなの、私たちの世界の地続きにある現実じゃないかと思ってしまって、なんか、単純に「面白い!」って言えない自分がいた。いや、ちゃんと面白いから、痛いのだけれど……。
何より、映画の予告編を見て「痛快な復讐劇」を期待してしまった他ならぬ私自身に対する、作品からの、キャシーからの真正面のパンチを受けた気がして、喰らった。傍観者として消費しに来たみたいだけど、どうだった?と突きつけられた気持ちになった。
結末も全然最悪で(※褒めてます)、そりゃそうだよな、こんな始まり(ニーナの出来事)からして最悪な物語が大団円、キャシーは復讐できてにっこり、で終わるわけがないんだよな……と思った。どこかでそれを願っていた「無邪気な」自分に気づいて、またショックを受けて、味がしないまま昼食のカレーを食べた。
その点、『ラストナイト・イン・ソーホー』は対照的かな〜と思う。印象的なのは、終盤の、火に包まれたおばあちゃんが、救い出そうとしたエロイーズを明確に突き放すシーンだ。
その一連の流れは、被害者に手を差し伸べることがかなわなかった、ともとれる。けれどもあのシーンは、おばあちゃんがエロイーズの差し伸べる手を「とらなかった」のだ。このことは、ごく個人的な「復讐」で終わらせざるを得なかった被害当事者(を象徴するおばあちゃん)が、その負の連鎖を継承させないぞ、あなたは違うやり方をチョイスして生きてね、と、明確にグッバイを告げているシーンなのかな、と受け取った。
どちらの作品が優れているという話ではなく、描こうとしている着地点が違うのかな、という話。
ばーっと書いちゃったので、後日加筆修正するかもです。
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