子どもをどこまで𠮟り、コントロールすべきか。
対照的な2冊の本。
みなさんはどうでしょう。
世の中の流れ的には「前者がいいんじゃないかな?」という感想が多そうな肌感覚があります。
でも、「今の時代、大きな声では言いにくいけど、親がしっかり言わないから、今の子どもは打たれ弱い子が多いよねって実は思ってるんだよね」
って人が教育現場に多そうだなーという肌感覚が正直あります。
まぁ、単なる私の感想ですからどっちが正解とかもないんですが、私は
『子どもはそのままでいい』
の段階にいます。
前は、ある程度は言って聞かせないとダメだよねって思っていました。
では次に、
みなさんはどちらがしっくりきますか?
世界の押し返しに耐えられないのは大人たち。
この本について考察していきます。
レビューを見ていると、学校教育関係者さんらがこの本にしっくりこられているようなレビューがとても多い感じがしました。
高評価のレビュー内容
こういうこと、なんとなく大きな声では言い辛い世の中になったなーという先生方の思いが噴出しているなーと察しちゃいます。
こうしないと、学校がうまく回らないよって思ったり、そう思わないとやってられないんじゃないのかなーとお察しはします。
お察ししますがなんていうか、先生の立場を守るための感想だよなーと。
つまり、世界の押し返しに耐えられてないのは先生ってことなんじゃないって思わずにはいられません。
我慢と忍耐、それ美味いの?
具体的にどういう場面でどう叱るのかってことは書いてなくて、「一体何を叱って忍耐力を付けさせたいんだろ?それ美味しいの?」と思ったりもしました。
だって、大人が「叱る」というのは、大人の経験からくる概念やものさしで「ジャッジ」して、「良い・悪い」を判断して叱るってことでしょ。
それって、もっともっと大いなるなにか(信仰心は無いし自分で書いててそれがなんなのか分からないけど)から見たら「それホント?」って思う訳で。
偏った読み方になっているかもしれませんが、書いてあることをざっくり言うと・・・
というようなことが書いてありました。
でもさぁ、これ裏を返せば
こう考えるに至るのは、この本を否定しているでも屁理屈でもなく、単なる考え方の段階の変化なんだと思います。
もちろん、前者が悪くて、後者がいいってことじゃなくて、単なる段階の違い。
色々あったからこそ見える段階・視点というか。
そういう体験、つまり世界の押し返しを受け入れて移行した人もいるだろうし、押し返しに耐えられず、今まで通りの価値観を引きずる人もいるだろうなと。(つまり、この時点でこの本の自己矛盾が生じてしまってる訳ですが)
我慢・忍耐・不安感・狭い感じ・寒い感じ・息苦しさ・重さ・孤独・抑圧・否定・・・
美味しいなら味わい尽くして~
私はもうそれらを味わい尽くし、もうお腹いっぱい。次へ行くのもいいし、そもそもそれらを知らずにいるのもありだと思う。
新しい視点の獲得で段階移行。
先生が生徒に暴力を振るうの、昔はよくあったけど、今だったら大問題。
例えば「理解させる」ということについて、昔は
「こいつらは、体で分からせないと何も分からない」段階
竹刀を持って生徒指導をしていた先生も、竹刀で叩きはしないけど、竹刀の大きな音と威嚇と大声で
「こいつらは、言って聞かせないと何も分からない」段階
時代も後押しして、体罰ダメー、パワハラダメーとなり、新たな視点を獲得して段階が変わってきた歴史。
「理解させる」ということについて
体罰
↓
言葉で「叱る」「コントロール」
↓
今はその次の段階へ移る過渡期なのかも・・・
それってなんだろうね・・・
でもね、「段階が変わることはいいこと」というジャッジでもなくて、多分、ひとつ視点が増えるだけのこと。
叱るのが悪くて、叱らないのがいいとか、進んでるとか遅れてるとかもないし、叱ってみて、この子にとって良い方向につながったとかある訳で、その逆もある訳で。
そもそも「叱る」って言葉でもなく、「話す」って感じだったりもある訳で。
今の時代は、子どもとどう関わったらいいのかの目安もお手本自体も多様化してて、叱るのがいいのか叱らないのがいいのか、そんな答えはもう無くて・・・
つまり何が言いたかって、
『視点を増やすって発想で段階を移行させていくことに、学びがある』
ということ。
子どもも大人も関係なく、そんな学び方がこれからもっともっと世の中に増えてくると思う。
それは誰かが分からせるという類のものでもなくて、単なる見え方。
「この角度からはこう見えるよ」
と、考え方の違いや対立じゃなく、単に見え方をシェアするだけのこと。
我慢と忍耐が好きならすればいいし、嫌いならしない方がいい。
精神衛生的にも。
押し付けない、コントロールしない。
子どもたちは親世代が持ってない新たな視点を生まれながらに持っていて、次の段階へシュッと行くんだと思う。
例えば、パソコンの材料が何で、どう組み立てて、どうプログラムして動いているのか、努力と忍耐でよくよく理解してないとパソコンが使えないよって誰も言わないじゃん。そこ分からせないとパソコンは使いこなせないよとは誰も言わないじゃん。
次の段階にシュッとすぐにいけるのに、古い大人たちによって、古い箱に何回も何回も入れらるような・・・、体で分からせようとされたり、言葉で分からせようとされたり・・・
それ全部クリアしないと次行けな、いじわるなゲームなのか?
ていうかホントにフォースか!?
そう考えると、「叱る」の次の段階ってなかなか理解しがたいですね。
段階が移行して「体罰」は完全にダメっていうのは理解できる・・・
でもってフォースはさておき、今は移行期間、過渡期なのかもしれない。。
でもそれくらい新しい視点を獲得して段階移行するってことで、やはりすぐには理解しにくいことなんでしょう。
「叱る」「コントロール」が結局遠回りだと身をもって知る人たち。
子どもが不登校になると・・・
そういうことを言われることもあるし、そう言われてるんじゃないかと感じることがあります。
親たちも最初は子どもを色々とコントロールしたりと、手も口もいっぱい出て、ホントに色々やってみて、
「ああ・・・そういうことじゃなかったのかも」
と新たな視点にたどり着いたりします。(フォースを感じる領域か!?)
手探りでその境地に辿りつく人もいれば、同じような体験をした先輩ママたちの言葉から気がつく場合もあります。
手探り独学でフォースを感じる・・・w
ジェダイになれるかもしれない・・・w
※宗教でもビジネスでもないです
不登校の親たちの視点獲得と段階移行。
叱ったりコントロールしていると、こじらせ期間が長くなるというのが最初は全然分からないんだけども、時間をかけて分かってくる人は少なくないです。
どうやったら分かるかというと、
子どもが学校に行かなくなり、日々の暮らしの中で子どもの極限の状態を目の当たりにすることがある訳で・・・
例えば、子どもに身体症状がでたり、リスカをしだしたり、食事を食べなかったり、食べ過ぎたり、暴力がひどかったり、何もせず宙を見つめていたり・・・
まぁ、人にもよりますが、
という境地に辿り着く訳で、
つまり、
というところに、体験を通して移行する。
色々やらかした結果わかること。
近道も遠回りも、いいも悪いもないんだけど、結局ある意味それが近道というか。
その視点を獲得していく不登校の親が増えているのかもしれません。
自分を変えられない大人たちの無自覚なダークサイド。
大人たちはね
「子どものために」
と、意図とコントロールを込めてしまうことが多い。
あらゆるジャッジをしてしまう。
だって、コントロールを辞めてしまうのが怖いんだもん。
凧の糸を話しちゃうようなことしていいのか、
このままでいいのか、大人自身が超不安になる。
叱らなくていいのか、コントロールしなくていいのか・・・
と。
世界には、それを外した体験談がたくさんあるのに、それを見ようとすることさえも怖いっていう大人はまだまだたくさくさん。
だって、今までの価値観が崩されたら、自分が保てないような気さえしてしまいますからね。
今まで自分は我慢してきたし、忍耐力を身に着けて、周りと上手くやってきた。ドヤっ。
それが世の中では有効だって信じられなかったら自分の頑張りはどうなっちちゃうの? シュン・・・
つまり、
大人たちにそういうのが見え隠れしているのを、子どもたちは見透かしていたりします。
もうそれはダークサイド・・・だから仕方ない・・・
じゃなくて、段階が違うだけ。知らないだけ。そんだけのことなんだわ。
『「叱らない」が子どもを苦しめる』の本も、「子どもが学校に行きたくない」と言ったらすんなり休ませるのが良い方向に向かう的なことが書いてあります。
(ここは叱らないのね)
それはたくさんの体験談の情報からそうおっしゃってるんだと思う。
それを知っていれば活用しない手はないですもん。
それもひとつの新たな視点。
専門家じゃない不登校の親たちは手探りでそれをやってきた。
「学校に行かなくてもいいという親が増えてる」
と、批判的におっしゃる人もいるけれど、親は
「行かなくてもいい」
と言いたい訳じゃなく、
「子どもが学校に行けない、行きたくないというのであれば、行かなくてもいいと思う」
という、子どもの自己決定をそのまま受け入れるというシンプルなものなんです。
その意味が分からず「甘やかしてる」「きちんと言わないと」と思うような段階の人はまだまだ多いような感触はあります。
割と校長先生とかに。
不登校の親も、最初割とそういう感覚を持っている人も多くて、でもだんだん経験していくうちにそういう段階に辿り着くんですよね。
そのことを先生方に知っておいていただきたいな。
「叱る」「叱らない」の向こう側。
向こう側は
『子どもはそのままでいい』
ということなのかもしれないです。
ライトサイドもダークサイドも一緒くた、境目もジャッジもなく
『そのまま』
そんな風に思います。
立花高校の校長先生(校長ちゃん)。
自分の学校の生徒を、こんなにも心から愛おしいと言ってくれる先生って、全国にどれくらいいらっしゃるのかな?
この方のお話を聴いていると、叱るとか、コントロールするとか、我慢させるとか、どうでもよくなってきます。
そんな浅いとこにいちゃダメだよ、大人たち。
子どもたちは、身をもって大人たちにメッセージを発してるんだよ。
そんな気がしてきます。
この動画、④まであります。おススメ。
そして、校長ちゃんの本。
この本の中のエピソード
深夜俳諧で警察に補導されたお子さんのお母さんの涙ながらの言葉
詳しくは、サンプルで読めます。
このエピソードから思うこと、
結局、自分がどうしたいかしかない。
いいこと、悪いこと、嬉しいこと、嫌なこと、
生きてると色んなことを感じます。
その感じ方は人それぞれ。
同じことでも人によっては平気だったり、または絶望的だったりする訳で。
測れないものなのに、そこに押し込められてしまうのは苦しいことだと思います。
押し込められた挙句、我慢が足りない、忍耐が足りない、もっと心を強くしないと、親がもっと叱らないと・・・
もう、そんな世界線忘れてしまったような場所に私はいます。
自転車が乗れないのがもう分からないかのような。
・・・それもこれまで話したような段階の例。
同じひとつのことでも、我慢と忍耐を全く感じないひともいるだろう。
耐え難いと思う人もいるだろう。
我慢と忍耐が好きな人もいるかもしれない。
もしも耐えがたいことだったら離れたり環境を変えることも必要。
それを「みんなはちゃんとできてるのに」という風に思ったり、押し付けたりするのは危険なこと。
もしも子どもがこんな風に大人の顔色を伺って、世界の押し返しに耐え、不快感情を自分の中で納めて、同調圧力に屈し、自分がどうしたいかを見失ってしまったとしたら・・・
ホントにそれでいいのかなと悲しい気持ちになります。
何かあった時、躊躇なく大人に相談できる力がとても大事。
そういうことを、子ども自身がしっかり認識して生きられるような環境づくりと接し方を、大人たちが心掛けることが大事になってくるんだと思います。
どう叱り、どうコントロールするか。
そんなことどうでもいいことなんだと思います。そう思っているうちは、子どもとホントの信頼関係を築けないのかもしれない。
叱って、コントロールして、我慢させるようなこともですけど、
『子どもに教える』
ってことさえも、おこがましいと感じるほど、フォースなのかなんなのか、大いなるなんとかなのかなんなのかは分かりませんけど、2024年時点では言語化できそうでできないところにいます。
『自分がどうしたいのか』を深く掘り下げる余裕が持てるかどうか。
体罰の時代
↓
叱る時代
↓
次の時代
が来るように、
多分学校教育も
『教える』時代から、次の何かにシフトするんじゃないかな。
今はその過渡期。
親がきちんと躾ないからだとか、子どもが打たれ弱いからだとか、
そう言っていたことも忘れてしまうくらい、世の中はあっという間に変化するのでしょう。