瞬間をプロセスを楽しんで生きる〜anagonの日記 6/15〜
①今日あったこと
今日は主に勉強をしておりました。
哲学は面白いですなあ。
・「蹴りたい背中」読み終わる
・宗教哲学の授業を受ける
・レポート書きまくる
・動画作った
・ギター修理して失敗した
・レコードプレイヤーを引っ張り出してきた
・WBのMT
②今日思ったこと
1.「よい生き方」ってなんなんだろねって話
今日夜な夜なオンデマンドの授業で宗教哲学の授業を受けておりまして、
その中で、アリストテレスの人の行為を「キーネーシス」と「エネルゲイア」の2つに分ける思想体系を知りました。
僕は全然哲学に詳しくないので、ほとんど授業と、プラスアルファの学習で得た知識の受け売りでございますが、
簡単にいうと「キーネーシス」と呼ばれる行為は、「家を建てる」とか「机を組み立てる」みたいな、行為の目的が行為自体に内在しておらず、「目的」が達成されるまで常に「不完全」で「未完成」である行為です。
家を建てるという行為は、家を立てきらないとその行為の目的は達成されないわけですね。
一方で、「エネルゲイア」と呼ばれる行為は、「旅をする」とか「思考する」とか「見る」みたいな、行為の目的が行為自体に内在しており、「目的」に達するまでが「完全」で「完成」されている行為を指します。(プロセスが「目的化」しているので目標はないみたいなことが書いてある文献もありました)
そしてアリストテレスは、「よく生きる」という行為を、「エネルゲイア」的な生として扱っているようです。
ここにおける「よく生きる」を、授業とかを聴きながら
「その瞬間瞬間に目的があり、その生がその瞬間瞬間で完全で完成している、今生きているということに充実感を感じる生がエネルゲイアとしての生であり「よく生きる」ことである」と解釈しました。
(「アリストテレスってすげえなあ」って思った)
さて、ここまで考えた時に、
なんだか僕は、エネルゲイア的な「よく生きる」というのが、本当に「良い」か少し疑問を持ちました。
確かに、瞬間瞬間で充実感を感じる生の方が、それがない生よりかは「良い」気がするけれど、
かと言って、それだけじゃなんか物足りなくない?
それはもう僕は「キーネーシス」的な生のあり方の主流に飲み込まれてしまってるから?
そんなことを思い、授業を受けた後に他の記事なんかを見てたら、アドラーの「嫌われる勇気」にもこの概念が使用されているみたいで、
それを紹介する記事には、エネルゲイア的な生を「いま、ここ」に重きをおいている生みたいな説明で書いてました。
要は、何か目標に対して、「いま、ここ」の「未完成な自分」「成長途中の自分」、「プロセス」を楽しむのがエネルゲイア的な生であると言った感じ。
なるほど、目標がないわけじゃないのね。
これなら理解できるし、「よく生きる」って感じがする。
じゃあ、とりあえずは、なんか目標を立てても、その目標のためにプロセスを蔑ろにするのではなくて、
プロセスとか「いま、ここ」の「瞬間」に充足感を得られるように、楽しんでいこうって感じで、これから生きて行こう〜ってことか。
僕もそうしよう。
そんなことを思いましたので、そんなことを今日は書かせていただきました。
2.「蹴りたい背中」ざっくり書評
作家綿矢りさが、2004年に史上最年少19歳で芥川賞を受賞した作品「蹴りたい背中」。
あらすじは、「紅の手帳」(https://nicoopy.com/6132.html)さんより拝借して以下の感じ。
舞台は男女共学のとある高校。
主人公は、女子高生1年の初実(ハツ)と、そのクラスメイトの男子高生・にな川。
ハツはクラスのメンバーに溶け込めないでいるが、そのメンバーを見下し、自分を正当化して毎日を過ごしている。
そんなある日、ふとしたことがきっかけで、クラスメイトの男子のにな川が気になる存在となる。
同じようにクラスの誰ともつるまず、いつも1人でいるにな川。
そこに共通するものを感じ、声をかけてくれるにな川に、何かと惹かれていく。
しかしにな川は、あるアイドルを追いかけている極度なオタクであることが分かった。
ハツは、にな川のことを知れば知るほど、これまで感じたことのない「蹴りたい」という感情が芽生えていく・・・。
クラスのあぶれ者たちの人間模様を描いた純文学な訳ですが、これがなかなか読み終わってももやもやしておりまして。
ネタバレになりそうなので、あまりかけないんですけど、
ただね、感想として今のところこれに尽きるなあ〜っていうのは
「これが表現か〜〜、これが純文学か〜〜〜」っていう感想です。
思春期のアイデンティティの形成で迷い込む迷路で見る、ぐちゃぐちゃした感情や景色や色彩を、どれだけ直接的出ない言葉で、鋭く美しく如実に表現するか、という世界がここにはある。
直接的な表現でないからこそ、より深く共感できる感情があり、より鋭く刺さる言葉があり、より温もりを持った言葉があるのだなというのを、
ほぼ初めて純文学と呼ばれるものを読んだので、痛く感動しました。
この文学を読んでいて、強くそれを思うと同時に、この文学を通して青春時代のあのなんとも言えない苛立ちとか、どこに向けたらいいのかわからない怒りとかが強く思い出されて、懐かしい気持ちになりました。そしてその怒りや苛立ちがまだ自分の中で、消えてはいないんだなというのを実感しました。
ミステリーみたいな派手な展開はないけれど、僕はとても好きな本でした。
③今日の歌詞「泡のような」
以前、キリンレモンのCMでいろんなバンドがあの有名なメロディを使って曲を書くみたいなのやってて、
それを僕もやりたいと思って書いた曲がこの曲です。
そしてのちに大学の文化祭のテーマソングに応募して、落選してしまったのですが、個人的に歌詞がとっても気に入っていて、
今日書いた内容にもなんかかぶっていたので、今日はこの曲の歌詞を載せます。
「泡のような」
まだ見ぬ場所の僕はまだ無力だ
それが始まりでしかないと胸が高鳴る
肩切る風はどこに僕を運ぶのだろう
新しい自分はきっともっとなんて思うんだ
あぁサスティンも永遠じゃない
あぁならせめて今だけでも夢想家でありたい
走り出すよ
この泡の中へ 刹那の時に 何をかけよう
消えてしまわないで 束の間の今を 僕は生きてるかい
そう問い続けてんだ
夜の街灯が映し出したのはいつも私の翳りだった
教室の隅 いてもいなくても変わらない私
あぁでもリフレインも永遠じゃない
あぁならせめて今日だけは助演じゃなくて主役でありたい
踊りだすよ
この泡の中で 儚い時に 何を見せよう
消えてしまわぬように 限りある今を 私は行きてるかい
泡はいつか消えるけれど
今はいつか過ぎていくけれど
だからこそ だからこそ
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