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受け入れるということ

他者を理解して受け入れよう、という。

もっとひらたく表現するのなら「人それぞれ十人十色なのだから、自分と違ってあたり前だと認識し、相手をまるごと受け入れよう」となるだろうか。

一人ひとり自分とは違うと頭ではわかっても、みなを受け入れるというのはやはり、とても難しい。

そこには2つの理由がある。
自分が受け入れられていると感じる経験が、受け入れられていないと感じる経験より少ないこと。
そして、つい「あなたはどうなのよ?」と斜に構えてしまうこと。

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学校や職場、あろうことかお金を払って通っていた習いごとの場で、なじめず弾かれた経験がある。
そして、なかにはわたしに理解を示してくれたり助けてくれたりした人がいる。

流れとしては「大きな輪から弾かれる→別の誰かに受け入れてもらえる」が多い。
弾かれたままフェードアウトした場もある。
受容は弾かれとセットだけど、弾かれたからといってその先誰かが受け入れてくれるとは限らない。

「事実」は異なるかもしれないが、わたしの「記憶」では、自分が受け入れてもらえた経験は乏しい。
だから手放しで人を受け入れることに抵抗がある。

ここでふたつめの理由につながる。
あなたはどうなんですか?と。

他者を受け入れましょうというあなたにもきっと、受け入れられない類の他者っていますよね。
クチャ食いする人は生理的に受けつけないとか、時間にルーズな人とはつき合えないとか。

わたしの心が狭すぎるのかもしれないけれど、あなた自身、言っていることとやっていることがちぐはぐなのに、人に押しつけないでよ、と思う。

他者の個性を受け入れられるに越したことないなんて百も承知だ。
しかしどうしても合わない・受け入れ難い人もいる。
だけど自分は受け入れられたい。

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…逆に、がんばっても努力しても、残念ながら受け入れてもらえないことだってある。少なくともわたしにはあった。
自分をぞんざいに扱う人を受け入れられるほど、わたしはまだ寛容ではない。

だから最近の「受け入れよう」「受け入れてほしい」みたいな風潮を、すこし押しつけがましいと感じてしまう。
そういうあなたは、人のことをちゃんと受け入れているの?
努力はしているの?と。

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「受け止める」ぐらいが、努力目標としてちょうどいいんじゃないかと思うのだ。

厳しい言い方になってしまうし、当時わたしに手を差し伸べてくれた人たちには本当に感謝してもしきれないのだけれども、「自分が受け入れてもらえる場所」を居場所というのなら、自分の居場所は自分から見つけにいくものだと思う。

弾かれて孤立して砂漠に放り出されて、そのたびに自分を省みて、のどもカラカラの状態でサヴァイヴして見つかるもの。
(あくまでわたしにとっては)

そりゃあわたしだって、もっと寛容になりたい。
だから、なんとなく「合わないな」と感じても、その「なんとなく」が言語化あるいは解消できるまで、相手との対話を試みるようにはしている。

たとえ周囲からの評判が悪い人だったとしても、自分できちんとたしかめてから判断する。
その程度だけど、一応努力はしている。
受け入れられるところまではできていないけれど、せめて受け止めようと。

また、相手がわたしを受け入れるかどうかは相手が決めることだし、そもそも自分だってできていないことを人に求めるのは違う。

感情的にならず、媚びることもせず、自分は自分の価値観に従ってものを言い、行動するだけである。
その振る舞いを見て受け入れてくれる人もいれば、そうでない人もいる。

人はみな十人十色。
それぞれの個性を受け入れられるかどうかも、十人十色。
「受け止める」が努力目標。

こんな考えだから「嫌なやつ」「鼻につく」「ひどい」「何様?」などと弾かれてしまうのかもしれない。
でもこれが、今のわたしの結論。

…まだまだ修行の身です。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたが他者を受け入れるためにしている努力は、なんですか?

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