ただ居るだけで尊い存在
ちょうど2週間前の話だ。
「明日には風邪の症状が引きますように」
「明日だけは熱が出ませんように」
そう念じながら、ゆっくりと目を閉じた。
翌朝、幸いにも熱は出ていない。
しかし「なんか熱が出そうな感じ」と鼻咳くしゃみのバラエティパックを荷物に抱え、ポッケにはのど飴を忍ばせ、風邪薬を飲んでマスクを着けて家を出た。
旧友と出かけた先は、動物園だった。
このときのわたしは、風邪で体調を壊したことをきっかけに「もしかしたら心も風邪を引いているのかも…」と、燃え尽きを自覚しはじめたころだった。
旧友は繁華街でのショッピングを希望していたが、わたしが「どうしても生きものにふれたい、なにか生のエネルギーを感じたい」と強く主張したのである。
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ふだんならトラや鳥の前で長く足を止めるのだが、その日わたしを引き止めて離さなかったのは、象だった。
体高3mを超える、恐竜のような生きものが、長い鼻を器用に使って草を食べ、のそりのそりと獣舎のなかを歩きまわり、日向ぼっこをしている。
その悠然としたふるまいと、つぶらでやさしい瞳に、理由もわからず涙がこぼれそうになった。
自慢の鼻でわたしの頭を撫でてくれるような、象がまとう温かい空気が、トゲトゲででこぼこのわたしの心をぽわんとまあるく包んでくれる気がした。
次に長い時間を過ごしたのは、ゴリラの前だ。
たくましい僧帽筋、大胸筋、そして上腕。
黒光りしたいかつい顔。
見てくれに似つかわしくない、穏やかな表情と動き。
ちょっとした段差にまるで人間のように腰掛けて、おもむろにキャベツをほおばりはじめる。
キャベツを食べ終えたかと思えばゲップを一発かまし、ロダンの「考える人」像のごとく哲学的な表情でどこを見つめるでもなく座している。
ゴリラさん。きみは今どんな気持ちでそこに腰をかけているのかな。
たくさんの好奇の目線に怒っているのだろうか。
うっそうとしたジャングルでの生活を夢見ているのだろうか。
あるいは生涯をここで終えるのだと察し、諦めているのだろうか。
はたまた「あーあ、食ったなあ」などと、ぼけっとしているのだろうか。
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動物園の動物たちは、だいたい食っているか眠っているのか、どちらかだ。
友人がぽつりと「ほかにすることないのかな」とこぼした。
…ないんだよ、たぶん。
食って、寝て、排泄して。
時に日光や水を浴び、毛づくろいをし、あるいは爪を研ぎ、遊具で遊ぶなどが考えられるが、それぐらいなんだよ。
「いや、逆に人間が忙しすぎるんじゃない?」
ひっきりなしにスマホまたはPCをいじり、働き、子どもを学校や塾に通わせ、スーパーに買いものに行き、食事をつくり、洗濯も掃除もする。
キャリアで悩み、人間関係で悩み、子どもの進路やお金のことでまた悩む。
人間からスマホとPCを取り上げたら…
メッセージアプリ、動画、ゲーム、コミック、買いもの…ありとあらゆるアプリが詰まったスマホを手放したら、どれだけの余裕が生まれるだろうか。
それこそ動物園の動物たちと同じようになるんじゃないか。
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PCやスマホなしの生活は難しいにしても、手放せるものはほかにあるはずだ。
たとえば、気遣い。
動物園ではわたしたちが動物さんを「拝見している」のだからあたり前だが、動物たちは人間どもに愛嬌を振りまくこともなくただそこに居て、生きている。
わたしたちはどうだろうか。
1を聞けば2も3も理解して行動する。
指示されていなくても意を汲み取り、先回りする。
期待を裏切らないようにふるまう。
「指示待ち人間は仕事ができない」といわれる。
もちろん指示を待たず、言われていないのに1歩2歩と動けるのならそうしたほうがいい。
でもどうなのよ。
指示されたことをきちんとできるのなら最低限それでOKだと思うし、そこまで咎められることなのだろうか。
期待しすぎなんじゃないの。
言葉にしてもいないことを「これだから指示待ち人間は」と文句をたれるなんて、ちょっとナンセンスじゃない?
繰り返すが、指示されていないことまで汲み取って動けるならそうしたほうがいい。
でも、できないときは「最低限」でよくない?
最低限、いわれたことさえできればよくない?
いわれてないことまで、しなくてよいと思うんだけど。
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なお、今のわたしは先回りも気遣いも休憩中です。
「言われていないから(やってない)」というのは、ともすると屁理屈にも捉えられかねないが、そんな余裕がないのだから仕方がない。
「仕方がない」というのも、相手によっては「開き直るな、甘えるな」と咎められそうだが、紛れもない事実なのだ。
そんな屁理屈は理解してもらえない前提とすれば、その場・その人からそっとエスケープかましたっていいと思う。
動物園にいるゾウもゴリラも、ただそこに居るだけで尊い。
きっとお家にいる生きもの植物も同じであろう。
好かれよう、期待に応えようなどと気遣いをしなくたって尊い。
人間が同じことをすれば、残念ながら「使えない」「屁理屈」「気が遣えない」などと低評価をくらいがちだが、がんばることにつかれてしまったときには、人間だって「ただいる」だけでじゅうぶんだと思うのだ。
逆に、心を通わせた家族・友人・仲間がつらい状況に陥っているのに「使えない」などとスパイシーな要求をしてくる相手とは、距離をとってもよいとさえ感じる。
ゾウのように悠然と、ゴリラのように孤高に。
そんなことを気づかせてもらい、たくさんのエネルギーをもらった動物園であった。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたにとって「ただ居る」だけで癒しの存在は、どなたですか?
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