noteを続ける効果を考えてみた
わたしがnoteを書く理由は、別の記事でもお伝えしたとおり、日々の観察記録を残すためである。
それも「書き続けるぞ!」と気張って始めたわけではなく、なんとなくぬるっと始めて、正直いつやめてもいいと思っている。
つまり「書き続けている」というよりも「書くのをやめていないだけ」と表現するほうが適切だ。
だからいつから始めたのか、よく覚えていない。
禁煙や禁酒と似ていて「ぜったいやめるんだから!」と鼻息荒く始めるよりも「ちょっと吸わない(呑まない)でおこうかな」程度で始めるほうが成功する確率が高いのに似ている。
そうはいっても、なんだかんだ季節がひとつ移り変わるぐらいにはnoteを書きつづけられているはずだ。
ここらでちょっと、noteを続けてみた効果を考えてみると、これも「なんとなく」だが、note執筆はわたしに「自尊心を保つ効果」をもたらしているのではないかとの推察ができた。
効果を明確に実感しているわけではないので、あくまで推察の域を出ないのだが。
わたしの場合、意識せずに過ごしていると、怯えや嫉妬の感情が知らず知らずのうちにどんどんふくらんで、気づいたときにはストレスまみれになっている。
組織に属さないリモートワーカーにとって、人との関わりは充足感を味わえる一方、関わる人数が増えれば増えるほど消耗する。
全員が満足できるような決断をしにくくなるし、報われない気遣いも増えるからだ。
気遣いはほとんど自己満足でしているけれども、わたしもそこまで気高い人間ではない。誰か気づいてくれたら嬉しいとの期待をゼロにはできない。
だから時には「自分ばかりがんばっているじゃないか」と感じてしまうタイミングも出てくる。
それに、わたしはライターなのだが、クライアントやチームへメッセージを書くとなると自信がない。
「これは『常識』の範囲内だろうか」「なにか変なことを言っていないだろうか」と、いつもびくびくしている。
たとえば、わたしが仕事を休めばクライアントに不便が生じる。
「休んでも問題ないだろうか」「休暇を機に今月で発注が最後になったらどうしよう」などとあれこれ不安になるのだ。
人とくらべてもなんの意味もないとわかっていても、気遣いが上手できちんと評価されている人や、コミュニケーションが上手な人に羨ましさを感じるときがある。
嫉妬している状態そのものも自己肯定感を下げる要因になるし、がんばる意味を見出だせなくなり、ひどいと燃えつきやヤケを起こしてしまう。
報われないように感じる気遣い、満たされない承認欲求、承認欲求は自分で満たすものと理解しているからこそのもどかしさ、ナチュラルに振る舞っているように見える人への嫉妬、ナチュラルに振る舞おうとすることへの怯え…。
すこしずつ自分の心がスレていくし、その瞬間は自分で認識できるだけでも意外と頻繁に訪れる。
心の擦り傷が膿まないうちに、あるいは古傷がうずきはじめたらすぐに、noteに書いて手当てしている。
「こんなできごとがあって、ちょっと違和感がしたし、ちょっとモヤッとしたけれども、それでもわたし、がんばってるよね。痛いの痛いのとんでけー」と。
人は人である以上、悩みも欲求もなくならない。
自分はちっぽけで、弱っちい。
だから、吹けば消えてしまいそうな自尊心を書くことで自家発電しつづける。
良きことも、好ましくないできごとも、人には話しづらい心の動きを咀嚼して言語化することによって、ゆっくりとでも消化でき、いずれ自分の血肉となる。
noteは心の消化吸収の助けとなり、自分のたくましさを育てる効果があるのではないかと思う。
まだまだ検証中だけれどね。
今日も読んでくれてありがとうございます。
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