さよこちゃんを思い出す『終点のあの子/柚木麻子』
また柚木麻子さんを読んでいた。
なんか女の子とか女性の生き方しか得られない栄養素がほしくなると柚木麻子さんを読んでしまう。
『終点のあの子』は柚木麻子さんのデビュー作だ。
同一設定の女子校を舞台にした短編4篇が収録されている。女子校はただの女子校ではなくプロテスタント系の女子校だ。
すごーく個人的なことなのだがプロテスタント系女子校、というよりキリスト教系の女子校に私はめちゃくちゃ憧れている。キリスト教系列でカトリックとプロテスタントと分かれている認識なのだがあっているだろうか。
そういう学校は地元にもあったのだが通学の距離があり、絶対にしんどくなるのがわかりきっていたので進学はしていなかった。
まずなにより制服がかわいい。私が進学したのは公立の高校で、濃紺のブレザーに同色無地のプリーツスカートにネクタイが当時の公立高校のスタンダードであった。
その学校は赤いリボンに赤チェックのスカート、ブレザーも紺色ではあったのだが濃くて重苦しい紺色じゃなくて少し明るかった。漫画に出てくるみたいなかわいい制服で、芸術系のコースと特進コース、普通コースに英語系のコースがあった。
進学予定がないのにその制服で歩く生徒たちが見たくて高校見学も行った。敷地内に教会があったり、ステンドグラスがあったりで正直少女趣味な私にはたまらなかった。
だからこの「プロテスタント系女子高の入学式」という文字列を読んだだけで読むことを決めた。
内容はあの高校時代ならではの閉塞感と揺れ動く自意識に根拠のない万能感がまとわりついて、ひりひりして切なくて、あのころが愛おしかった。
女子校は、女の子同士はどろどろしてるんじゃないのだ。あの頃の狭くて掲示物がたくさんのごちゃついた教室と半径2メートル以内の世界がすべてだと錯覚してしまうところが、あの子みたいになりたい、こんな私ではいけない。自分は浮いてないかどうかと変な自意識をこじらせてしまうのだ。
もっと流動的で吹き抜けの天井があるぐらいの開放的な場所であれば、高校時代のほろ苦い思い出は激減するのではないかと思う。
同じ空間にいるからこそ生まれる羨望と優越というものはたしかにある。それがとりわけ発生しやすいのが毎日同じ教室で同じ年の子と過ごさなければならない、この年頃の子たちだ。
女の子だから発生しやすいのではない。私はそう思っている。
一番好きな作品は3作品めの『ふたりでいるのに無言で読書』だ。
いわゆるクラスの一番イケてる女子である菊池恭子と読書好きな保田早智子のひと夏の交流を描いた話で、私の高校のころの思い出とリンクする部分がある。
恭子はスタイルも良くて美人で大学生の彼氏がいるクラスの人気者である。とある夏休みの日、退屈を持て余していた恭子が図書館へ行く。そしてそこで早智子と出会い、小説を介して交流をするという話だ。
私も高校のころ同じクラスに勝手に憧れている女の子がいた。ショートボブが似合う、肌が白くて手足が長くてすらっとした綺麗な子だっだ。そんな垢抜けた風貌でありながら名前が”さよこ(仮)”といった。一応仮の名前にしておく。古風な名前で漢字も厳かな字があてがわれていて、本人の出で立ちと名前のギャップが物語に出てくる女の子みたいだった。勝手に心のなかで”さよこちゃん”と呼んでいた。
その子は恭子みたいにクラスの一番イケてる女子で、校則で禁止されているアクセサリーをつけてきたり髪を染めてきたりしていた。先生に注意されてもどこ吹く風という感じで、その堂々としたところがさらに憧れを強めた。
いまでも覚えているのは夏休みに入る前数日前の放課後。図書室に本を返しに行こうとしたときのことだった。教室をでるときに”さよこちゃん”に「〇〇さん!」と呼ばれた。あのときは本当にびっくりした。振り返ると”さよこちゃん”が駆け寄ってきて「本を借りるから選んでほしい」とお願いされた。
授業もサボりがちで各教科の課題もためがちな”さよこちゃん”は現国の先生から必ず読書感想文を提出するように、さもないと単位はあげられないとキツく言われたらしかった(私の学校は単位制だったのである)。
そこでいつも休み時間に本を読んでいる+現国の成績がいい私をたまたま見かけて声をかけてくれたらしかった。きらきらしていて、素敵なあの”さよこちゃん”に頼られたのが嬉しくて私ははりきって本を選んだ。
私はそのころ江戸川乱歩なんかをけっこう読んでいたのだけど、あんなおどろおどろしいものを”さよこちゃん”に読ませるなんてできない!と思って、恋愛もので読みやすそうなもの、そして装丁がかわいいものをイメージして、山田詠美の『放課後の音符(キイノート)』を選んだ。
「短編集だから、このなかのひとつを読んでそれで読書感想文を書けば1冊まるまる読まなくてもいいかも…」なんてことを言って。
”さよこちゃん”は目を輝かせて「名案じゃん!ありがとー!」と言ってそれを借りてくれた。校舎内の自販機で午後の紅茶のミルクティーをごちそうになって、途中までなぜか一緒に帰ることになったのも覚えている。その後、”さよこちゃん”と特に仲良くなるとかはなかったけれど、あれは私のなかではすごくいい思い出になっている。
恭子と早智子も結局そのあと特に仲良しになるわけでもなく、夏休みの終わりを迎えるのだけれど、個人的な思い出にすごく似ていたから、どうしてもこの話が一番のお気に入りになってしまった。
あの頃の世界の狭さに苦み走った思いをした人も多いと思うし、いままさにそういう思いをしている子もいるのだと思う。
大人が読めばあの頃の苦味を懐かしく思えるし、登場人物の女の子たちと同世代の子はこういう物語の存在を知ることで苦味が少しやわらぐこともあるのではないか。それが小説の効力だと思う。
思い出話を書いてしまったせいで少々長くなってしまった。
でも過去を振り返りたくなるぐらい、青春が鮮明な小説だった。