アイロニー論〈千葉雅也『勉強の哲学』第2章-2〉
3-1.アイロニー論
アイロニー論は77-88頁(文春文庫版)で語られる。そのうち77-81頁は2章の序盤までに既に語られているのでスキップする。
まず、この箇所で僕が興味の湧いた概念は「根拠づけの連鎖」(81頁最終行)と「現実それ自体」(85頁)だ。以下、この二つに論点を絞って議論していく。
3-1-1.根拠づけの連鎖
まず、「根拠」とは何か。千葉は不倫にあゝだこうだ言う人たちを例にとって説明している。
芸能人の不倫を非難する人たちに対して、「そもそも不倫は悪いこと?」とツッコミを入れる。
そうすると「悪いに決まってる」と返ってくる。
それに対して「不倫⇒(※)悪の『根拠』は?」と問う。
※「=」だと同値「⇔」と勘違いされそうなので、「⇒」で表した。こうすることで安直な換位を防ぐことができる。「=」では、「不倫⇒人を悲しませること」と「人を悲しませること⇒不倫」を区別することができない。この二つの等式が同時に成り立つとき、等式の両項は同値であると言われ、「不倫⇔人を悲しませること」と表現される。しかし、人を悲しませることは不倫の他にも沢山あるので、この場合は同値ではなく、両項の換位は成り立たない、という具合だ。
そうすると「不倫とは人を悲しませることで、人を悲しませることは悪だから、不倫は悪だ」と説得的な推論が返ってくる。これは三段論法で、この推論において、小概念:「不倫」と大概念:「悪」を媒概念:「人を悲しませること」によって結合されている。そのため、その結合に前提されている二つの結合、つまり小概念と媒概念の結合、媒概念と大概念の結合の根拠を問うと、効果的に根拠を遡及できる。
よって、この推論に対しては、「不倫⇒人を悲しませることの根拠は?」「人を悲しませること⇒悪の根拠は?」と問い返してみる。
するとおそらく、「不倫⇒A, A⇒人を悲しませること, よって不倫⇒人を悲しませること」と「人を悲しませること⇒B, B⇒悪」の二つの推論で返ってくる。
それに対してまた、「不倫⇒Aの根拠は?」「A⇒人を悲しませることの根拠は?」「人を悲しませること⇒Bの根拠は?」「B⇒悪の根拠は?」と執拗に問う。
そして相手は根気強く、「不倫⇒C, C⇒A, よって不倫⇒A」「A⇒D, D⇒人を悲しませること, よってA⇒人を悲しませること」「人を悲しませること⇒E, E⇒B, よって人を悲しませること⇒B」「B⇒F, F⇒悪, よってB⇒悪」という四つの推論を返してくる。
もうこうなったら我慢比べで、どちらかが根をあげるまで問答は続く。なぜこうした問答が延々続けられるのか。それは、根拠の遡及は原理的には無限にできるから、つまり「根拠の連鎖」は無限に続くからだ。千葉はこの遡及の操作を指して「超コード化」(82頁)と言っているのだと思う。
長くなるが、引用して確認しよう。「際限」「無限」「究極」「原理的」「適当」といった語彙は、今後千葉の言語論を理解する上で役立つので注意して読んでほしい。
超コードがひとつ成立して終わりではない。その超コードもまた疑いの対象となって、さらなる超コードによって破壊される。話の深まりは際限がない。
アイロニカルな話の展開とは、無限に遠くにある究極の根拠に向かって、話を深めては破壊し、深めては壊しを繰り返すことである。
実際の会話では、適当なレベルで切り上げになるでしょうが、原理的にはそうなのです。(83頁)
先程、三段論法を使えば無限に返答できることを確認したが、それが、「原理的」には「無限」に「超コード化」できるということだ。
しかし人間は有限的なものだから、いつか「超コード化」を止める必要がある。それは、「飽き」が来たからかもしれないし、「疲れ」たからかもしれないし、といった議論に繋げるのが、本書全体を通して展開される千葉の理路なのだが、第2章の言語論ではそこまで立ち入っていないので付言に留める。
3-1-2.現実それ自体
千葉は上の議論に関連づけて、上の問答のように言葉の真の意味を求め続けてしまうことは、言語の根本的な本質に関わる問題だと指摘する。
先程の例で「悪」は、「人を悲しませること=悪」「B=悪」「F=悪」といった様々な形で言い当てられていた。こうした規定が無限に続ければ、「悪」の真の意味に近づくと考えられるだろうし、現に原理的に無限に規定を与えられるのだから、真の意味への到達は望み薄ではなさそうだ。しかし、このように真の意味を欲望するアイロニストに対して、千葉は、
アイロニストは、特定の環境に依存しない、言葉の真のリアルな意味を求め、結局それに到達できないのです。(85頁)
と言う。
言葉は、それが言われる文脈やTPOによって意味が変わると前回までに説明した。そしてそれは言葉が「環境依存的」(cf.言葉の意味=用法としたヴィトゲンシュタイン)だからであると、千葉は表現していた。「環境依存的」とは端的に言えば、同名異義的つまり多義的ということだ。言葉の意味が多義的であることを許さず、その一義であることを求めるのがアイロニストだ。言葉が一義であるとは、言葉とそれを指し示す意義が、一対一の完全な対応関係にあるということだ。一方は犬、dog、개、hund各々が分け有つ真の本質、他方はそれを表現できる唯一の言語、まるでバベルの塔崩壊以前(人種と言語と国家が一つだった時代)のような想定だが、人間の歴史を見れば、世界市民思想、世界共通通貨、ザメンホフのエスペラント語、マルクスの世界共産主義思想、カントの世界連邦と、それに類する試みは挙げればキリがない。人間は往々にしてバベルの塔を志向するものなのだと、千葉の議論を通して僕は思った。
この先も少し新しい語で千葉はアイロニー論を説明するのだが、正直言うと、この後数ページ続く千葉の議論は僕にはよくわからなかった。偶然性に耐えられず必然性を求めてしまうという主旨の86頁と、言語的なVRの脱出を言う87頁が何を言ってるのかよくわからなかった。
ふにゃふにゃとした理解を書くのは嫌なので、正直に白状してこの回を締めることにする。しかし、僕のバベルの塔の着想は個人的に面白いと思っている点なので残した。
次回は、3-2.ユーモア論を読む。