読書は余暇です。
読書というのは本来余暇です。読書したい人はすれば良いし、したくない人はしなければ良い。世界中の人類の中で読書する人口はわずか2%ほどだと、どこかで読んだことがあります。だから読書する方が珍しく、しない方が当たり前と言えます。
ところが現実的には、国語教育界隈では「読書のススメ」とか「どうしたら読書習慣が身につくか」とか、「国語力には読書が必須」などという言葉が古今に飛び交っていて、とにかく読書が「なにやら良きもの」として敬われる節があります。大人の側は子供が読書好きになってほしいと願いながら、そもそも読書が何に効くのか? ほんとうに効くのか? その効用はぼんやりしていたりする。否よくわからないからこそ期待が持てる。それが国語教育における読書の扱われ方です。
これでは本の側も肩身が狭い。なんといっても彼らの多くは教育目的でこの世に生まれ落ちたのではなく、本それ自体がすでに目的を内包しているのです。それを「読解力向上のため」とか「漢字や語彙を身につけるため」なんて外的な目的を与えられて手段と化しまった本は、なんだか申し訳なさそうに、あるいは不服そうに教材の紙面で黙しています。「本来の居場所はここじゃないんですけどね、仕事のために出向しております」と言わんばかりに、よそゆきの顔をして。
私は12才の頃母親に「本くらい読みなさい」と呆れ顔で言われたことに形容しがたい怒りを覚え、以来子供に「本を読みなさい」という大人にだけはなるまいと決めて生きてきました。そして図らずも(?)国語教師と呼ばれるようになり、いつ何時このセリフを吐いてもおかしくない立場にありながらも背水の陣で凌いでいます。今のところ一度もこの言葉を子供に向かって放ったことはない、、はずです。
なぜ大人/親は子に本を読ませたいのでしょうか?
たとえば、
・本を通して普段使わない新しい語彙が身につきそうだから
・本を通して知識教養が身につきそうだから
・本を読んでいる間は子供が静かにしてくれるから
・本を読んでいる間は親の手がかからないから
・本を読んでいれば頭が良くなりそうだから
・本を読むことで集中力が身につきそうだから
・本を読むことで読解力が身につきそうだから
・本を読むことで言葉遣いが良くなりそうだから
・本を読むことで作文が上手になりそうだから
・本を読むことで将来的に良い大学に入れそうだから
・本を読むことで将来的にいい仕事について良い給料がもらえそうだから
これらが全部身につくならば読書はまさに漢方万能薬。なんとかして子どもに読書習慣を身につけさせたいと親が思うのも当然のことでしょう。私には子供がいませんが、もし私に子供がいたら、読書を好きになってくれたら嬉しいと思うでしょう。
一方で読書には欠点があります。それは時間がかかるということです。一冊の本を読みとおすのに数十分というわけにはいきません。映画だったら年間814本というのが私の過去最高記録ですが、本を年間814冊読むのは無理です。世の中にはすごい人がいて年800冊くらい読める人がいるかもわかりませんが、そういう人は特殊な速読能力を持っているか飛ばし読みしているかのどちらかだと思います。短編小説だって最低1日から1週間、長いものだったら何カ月もかかります。今まで読んだ中で最も時間がかかったのは『源氏物語』でした。当時満員電車に揺られながら会社勤めをしていた私はホラー的現実世界から逃避すべく『源氏物語』に没頭しました。それでも3カ月くらいはかかりました。
読書は何しろ時間がかかる。そして子供は学校に遊びに習い事に忙しい。語彙を上げたかったら語彙専用のドリルをやった方が遥かに効率的でしょう。作文とか話すことを得意にしたかったらアウトプットのトレーニングが必要だし、将来良い仕事について良い給料を得られるようになりたいならばお金の勉強をする方が近道だと思います。つまり私たちが読書に期待することは、実際に読書をとおして得ようとすると膨大な時間がかかる。マラソンをとおして大腿筋を鍛えようとするのと同じです。マラソンは時間がかかるわりに大腿筋の発達度はそこまで高くない。大腿筋を鍛えたかったらマラソンを走るよりもフィットネスジムに行って大腿筋専用のマシンを使ったりダンベルをもってスクワットしたりするほうが遥かに効率的です。はっきりした目的があるのならばわざわざ時間のかかる手段を選ぶ必要はないのです。
私の4歳年上の姉は幼い頃から読書家でした。家族アルバムの中の幼い姉の手元にはいつも本が置かれています。本に没頭すると夕飯の時間になっても食卓に降りてこない姉に対して、時間と栄養に厳格だった母は「本を読んでいる」という理由の場合のみ許し、姉の部屋へ食事を運ぶ心遣いまでしていました。門限に合わせて遊びを切り上げた私からしてみれば「なんじゃそりゃ」です。姉は好きで本を読み、私は好きで外遊び。なんでそんなに親の扱いが違うのか? そんな姉は国語の成績は中の上くらい、特に作文コンクールで入賞したみたいなことも覚えがないし、中堅の高校に進学したのち四年生の大学を卒業して一般の会社に就職して今は会社員です。彼女の学歴やキャリアに対する読書の貢献度は……わかりません。表面的には特になさそうです。姉もきっとこう言うでしょう。「読書が役に立ったこと? ないんじゃない? べつに好きで読んでるだけだし。」
本来余暇である読書の効用を述べるのは野暮だという意見をいったん机の隅に寄せて、あえて「読書が何の役に立つのか」という問いに正直に答えようとするならば、私はこう答えるでしょう。
「読書が実人生にもたらす良い面は大きく二つ、技術面と感性面とに分けられると思います。まず技術の面では、複数の選択肢を同時に考えられるようになるということです。今自分が置かれている環境、与えられている規律、負っている立場、差し出された選択肢、そういうものがただ一つの絶対的なものではないということ。より広い地平からその物事を見ることができるということ。そして他のあり得る選択肢に思いを巡らせることができるということ。そう、視野が広くなるとか、物事を相対化することができるということですね。
それからもうひとつ感性面といいましたが、感性という言葉がふさわしいかどうか私も未だわかりかねるのですが、ぴったりの言葉が思いついたら教えてください。つまりこういうことです。読書を重ねていくと、良文にも悪文にも出くわします。良文だけど自分の体には合わない文もあります。世間的には人気がないかもしれない本が自分にぐさっと刺さって離れないこともあります。読書というのは理屈で説明のできない、純粋な意味で言葉と身体の交流です。そうやって読書によって自然に身体感覚が鍛えられていると、世の中に蔓延する情報の海で、これは信じてよさそうだ、とか、これは信じない方がいいだろうな、ということが感知できるようになります。小手先の美味しい話に引っかからなくなるんです」
今ほど言葉の情報に溢れた時代はありません。あまりに情報が多すぎて、本物のふりをした偽物が多すぎて、一体どの情報を信じていいのかわからない。そこで、どれが本物でどれが偽物かを教えてくれるさらなる情報をまた探すことになる。こうして情報は情報を呼び、情報同士が複雑に絡み合い、もはや人は情報そのものを判別することができなくなり、結果として誰かに頼ろうとする。「この人の言うことは信じられる」という誰かを見つけたら、自分はただその人に従えばいいだけですから、こんな楽なことはありませんね。一方で人は「信じてもらえる人」になるために言葉で自分を彩る。一般の人々までもがこうして自分を言葉によってブランディングすることを考える時代がこれまであったでしょうか。
ここまで情報が飽和状態に至った令和時代です。子どもたちが大人になる頃は更にどうなっているのでしょうか。自分たち大人がいなくなった頃、この子がこの世界を無事に生きていけるように私ができることは何だろうと、私は教師として生徒を目の前にして考えるのです。否、私ができることなんておこがましいのですけれど。
上にあげた読書の二つの効用、すなわち自分のいる世界がすべてではないとわかること、それから、信じてよいものと信じるべきではないものを自らの直感で感じ取れること。これは情報溢れる現代社会に生きる子どもたちにとってとても大切な力だと思うのです。本来余暇であり自由であり、しかもやたらと時間がかかる非効率的な読書の価値はこういうところにあるのだと信じて、私は明日も明後日も子供たちと一緒に本を読み続けるのです。