今日ときめいたこと241ー「インクルーシブ教育・アメリカと日本の現状」
(ヘッダーは「IDEAS FOR GOOD」より転載)
(2024年11月5日付 朝日新聞 「インクルーシブ教育@japan」ー発達障害からの進学」米国ニューヨーク州認定学校心理士 バーンズ亀山静子氏、東京大学先端科学技術研究センター教授 近藤武夫氏)
日本の現状
日本は2012年にインクルーシブ教育にカジを切ったが、学校では「1人だけ違う学び方をすることに不慣れ」で進んでいない状況である。いわゆる「合理的配慮」は、小学校では担任などの理解があれば認められる例が増えているが、中学、高校になると教育体制が合理的配慮を阻んでいるという。
「前例がない」「どうすれば」と言っている間に1年が過ぎて、その子が日々の授業で苦闘し、学習に空白ができ、不登校になってしまうこともあるという。「前例がない」「特別扱いできない」は配慮を断る理由にはならない。
改正障害者差別解消法によって合理的配慮が義務化されたが、教員や学校を支える仕組みができていないし、地域のインクルーシブ教育や合理的配慮の円滑な実施を支える機動的な組織も未だ作られていない。
アメリカの現状
バーンズ亀山氏によると米国では新一年生の12%程度が何らかの配慮や支援を受けているそうだ。米国や英国の大学には障害学生が約2割いるので驚くべきことではないらしい(日本にも支援が必要な子が8.8%いるとされているが実際にはもっと多いだろうと言っている)
日本で合理的配慮が進まない理由の一つは「配慮」と言う言葉であると言う。「配慮だからしなくてもいい」という意識がまだ強い。子供の人権保障として「しなければならない」という意識を社会全体に広げなければ変わらない。「配慮」が誤解されている面があるとして日本から来た読み書きが困難な子の例を紹介している。
その子から「日本では配慮でノートは取らなくてよかった」と聞いて驚いたそうだ。日本では配慮が「おめこぼし」のように理解されている。1人一台の端末があるのに端末でのノートテイクを教えることも、板書のデータ共有もなかったということは、学習権を保障していないことだと。
米国は、インクルーシブ教育を大前提に法令に基づいた支援がなされ、一人ひとりの特性をきちんと把握し、「学校が何ができるか」ではなく「その子に何が必要か」という子供主体の視点ですべて考えられる。
座席の変更や聴覚・視覚刺激の軽減、テクノロジー活用、出題や解答方法の工夫、時間延長、、、。こうした配慮は当たり前の支援である。一方で、テストの問題数削減や出題内容の変更などは、丁寧なアセスメントで認められた子が、特別支援教育の対象として配慮を受ける。
2002年に「落ちこぼれ防止法」が施行された米国では、成績が伸びなければ学校側が説明責任が伴う。配慮によってどんな効果があったのかも説明しなければならない。
アメリカと日本ではこんなにも違うのかと衝撃を受けた。「インクルーシブ教育とは何か」という原点に立ち返って考え直す必要がありそうだ。発達障害者は自分の学習権を守るために、教育を行う側は発達障害者の人権を保障するために。「前例がない」などと言っている余裕はない。
日本においてもアセスメントや配慮の効果を見極められる専門職員を育てて学校に配置し、アメリカのようなシステムを構築しないとインクルーシブ教育はお題目だけで終わってしまうだろう。そして、またしても日本のインクルーシブ教育だけが異質なものに変形してしまう恐れがある。
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