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私たちはなぜ学ぶのか(8)ー「学問することは個人が『自己の立場を明確にすること』を助けるということ」

2022年11月12日付 朝日新聞「悩みのるつぼ」姜尚中氏の回答を読んで。

悩み事相談の記事である。相談者は、学問の奥深さを実感し研究者になりたいと思っているが、学問を一生の仕事として行けるか、覚悟が持てないと、悩んでいる。それに姜尚中氏が答えたものである。

まさに、かのマックス・ウェーバーの著書でもある「職業としての学問」の問題そのものである。姜尚中氏はウェーバーの言葉を引用して以下のように言っている:

「研究者になれるかどうか、『職業としての学問』に仕えてそれを生業とできるかどうか、それは僥倖次第だーつまりは、運が良ければ研究者になれる」

大学時代の講読の一冊だった本でゼミで読んだはずだけど、すっかり内容は忘れている。で、Wikipedia で手っ取り早く調べると以下のようなことを言っているような気がする(極端に要約すると):

「学者を志す者が、将来教授などのポストを得られるか、得られず人生を棒に振るかは、その人の研究成果ではなく、運や偶然で決まる。また、運よく大学教員になれたとしても、研究者としての評価と教育者としての評価には乖離があるとして、大学教員に抱く学生の幻想を打ち砕いている」

そもそも学問することの意義はなんなのか。答えは簡単には見出せない。敢えて学問に意義を見出そうとするならば、学問することは個人が『自己の立場を明確にすること』を助けるということだ。

しかし、学問に伴う宿命、つまり自らが主体であり続けるということに耐えるという宿命を受け入れなければならない。それができない人は、非アカデミックな職業に就いて、そこで自分の役割を果たし普通の人間関係の中で生きるべきである、と。

ウェーバーの考える「職業として学問をすること」は、非常に自制的・禁欲的で、高いモラルと情熱、不断の努力を求めている。それでも職業としての学問に仕えたいかと問うているようだ。

姜氏は、情熱と持続的な努力への意志があるのなら学問の世界に飛び込みなさいと助言しているが、以下の条件を付け足している:

研究あるいは学問の世界に「よって」生活するのかその「ために」生活するのか、しっかり見極める必要がある。「よって」と「ために」が一致して大学にポストを得て研究が続けられる場合と、そのような保証は受けられないが、研究や学問に一身を捧げることは可能である。その際、生計の糧を準備する必要がある、と。

私には「職業としての学問」に身を投じることはできそうにない。そんなにストイックになれないし。情熱だって長続きしそうにない。でも非アカデミックな居場所にいても、生きるために自分を支えてくれるアイディアや思想は学び続けたい。

「私たちはなぜ学ぶのか」は自明のことではないとウェーバーは言っている。「なぜ」は答えの出ない問いとして、生涯を通して考え続けることなのかも知れないと思う。



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