今日ときめいた言葉204ー「正気」or「狂気」、どっちがドラマチック?
(2024年8月13日付朝日新聞 「折々のことば」から)
「正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマティックなものである」
G.K.チェスタトン「正統とは何か」(安西徹雄訳)から
(記事原文のまま引用)
「宗教において『正統』であることの厳しさ。時代の先端をいくのでも時流に媚びるのでもなく、異端者にもならず、荒れ狂う馬を御すかのように己の節を守るには、途方もない努力が要ったと英国の作家は言う。平穏な日常もまた、凄まじい葛藤とその修復の連続の上に成り立つものなのだろう」
G.K.チェスタトンは私の好きなあのミステリー「Father Brown (ブラウン神父の事件簿)」の作者で、私は「推理作家」としての彼しか知らない。だが説明には「作家、批評家、詩人、随筆家」とあり、多才な人のようでディッケンズの評伝などは高い評価を受けているようだ。1870年代後半から1930年代に活躍した人で、江戸川乱歩と重なる。実際乱歩は「トリック創案率は探偵小説随一」と称賛している。
チェスタトンのこの言葉は信仰を持っている彼(カソリックに改宗した敬虔な教徒)の心情を語ったものだろうが、「平穏な日常もまた、凄まじい葛藤とその修復の連続」だと言っているように、現代を生きる我々に対する箴言のようにも思える。実際、彼には人生について示唆に富む言葉が多くある。
「狂気を生むのは実は理性なのである」
「平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりも、よほど非凡なのである」
「人は平凡なことを嫌う傾向がある。平凡で、凡庸であることは恥ずかしいことのように、人とは違うこと、すごいことをやろうとする。とくに若いうちは、平凡に見えることはやりたがらず、変わったことをやりたがる」
奇をてらった行動で耳目を集めようとしたりせずに、俗世にあっても自分の信じる生き方を貫き、自分を律して、日々の生活を丁寧に生きよといったところだろうか。だが、それはたやすそうに見えてなかなかできるものではない。
「荒れ狂う馬を御すかのように己の節を守る」は、まさに踏ん張って自分を持ちこたえようとしている人の姿だ。だから正気であることは、ドラマチックではないか、と。
私は勝手にそう解釈した。20代ではなく、老いて得た知見かな⁈