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今日ときめいたこと131ー「川勝知事の舌禍問題について思うこと」

あの発言は「素の川勝氏の意識」から出たものなんだろうなと思った。これは自分への自戒を込めて書いているのだが、人間どんなに賢くカッコよく振る舞っても自分の本質がポロッと出てしまうものなのだなと。だから、どんなにPolitical Correctness (政治的正当性、妥当性)を装って振る舞っても、所詮振る舞いである限りバレる。このことは心の片隅に置いておきたい。

人間の心に芽生える傲慢さ、羨望、嫉妬、それに劣等感とか優越感とかは永遠の課題だ。その課題に取り組むために(解放されたくて?)哲学や文学や倫理学や心理学があるのだろう。でも知識として学んだだけでは何の意味もない。「教養とは身体の動きにあらわれるものだ」と誰かが書いていたが、いわゆる「知識人」と言われている人にそのことを痛切に感じる。

昔大学院で学んでいた時、先生には「研究一筋で先生になった人」と「政府の官僚とかをやっていてその知見や「社会的身分」などをもとに先生になった人」(その種の人を「天上がり」と学生は呼んでいた)の2種類のカテゴリー(⁈)があった。

研究一筋派の先生は、「天上がり」の先生に対してちょっと複雑な感情を持っていたようだし(「大した研究業績もないくせに学者ずらして。自分はここまで来るのにどれほど苦労したことか」みたいな)、「天上がり」の先生も研究一筋派の先生に同じように複雑な感情を抱いていたように思えた(「二言目には研究業績というけど狭い研究室の世界しか知らないくせに」みたいな)。

「天上がり」の先生のことでは、こんなエピソードがあった。彼はもと事務次官から天上がった先生だったのだが、かつて自分が仕えた中曽根元首相を講演者として招聘したことがあった。壇上で中曽根氏と向かい合って座る彼に取って、その日は日頃の鬱憤を晴らす「ハレ」の日だったのだろうなとヨコシマな私は思ってしまった。

ただ、その講演で中曽根氏が話した内容は想定外だったのではないだろうか?確か「政策は理論なんかじゃなく直感で決まる」みたいなことを言ったと思う。聞いていた大勢の学生はあとで、「えっ!じゃあ何のために政策研究やってんの?直感で決まるなら政策決定過程なんてやる意味あんの。総合政策研究科なんて不要だと言われてるようなもんじゃん」と、中曽根氏の身も蓋もない話の内容に困惑気味だった。

学生も中々したたかで自分の将来を見据えて、どちらのカテゴリーの先生を選ぶかを考えていた。研究重視の学生は、その道の研究業績の多い先生を選ぶ傾向があった。それは教授になるというキャリアパスを想定してのことだろう。また「天上がり」の先生を選択する学生もその先生の人脈を想定して自分の人生に役立つだろうとの計算があってのことだ。

私の修士課程の恩師は(彼は純粋に研究一筋派であったが)、優秀だった自分の教え子が博士課程で「天上がり」の先生を選んだことに失望していた。超大国の大使だった人が指導教官だと言ったら食指が動くのもやむを得ないかもしれない。

私が感じていたように、恩師もそのことを感じていた。彼の場合は外国人教師ということで大学内ではまた別の圧力(差別?)も感じていたようだ。父親がパーレビ王朝時代の大臣だったことで革命時一家はカナダに亡命したが、中等教育はずっとフランスで受け、大学・大学院はフランスとドイツで博士号を取っている。イスラムの国に生まれはしたが彼は自分はモスレムではないと言っており、宗教からは自由な人だった。(ラーメンだって餃子だって大好きだったし😜)

彼の持つ輝かしい研究業績。在外研究だって色々な国で色々な研究者と行っていた。言語にも不自由していないし。英語ばかりか日仏独西はもちろんのことマイナーな言語だって理解していた。だから、こんな場合はこの2種類の先生たちは日頃の思いを押し隠して共同歩調を取る。両者共に抱いた劣等感がそうさせることは容易に推測できる。日本の狭量なアカデミアの中でさぞ不快な思いをされたことだろう。

そんな恩師から聞いた驚くべき話がある。在外研究のため成田空港に行った時、偶然そこで大学の先生に出会ったそうだ。その先生が放った一言。

「先生、今度はどこの戦場に戦いに行くんですか?」

この品の無さ!  もし彼がアメリカ人やフランス人の学者だったら絶対にこんな発言はしないはずだ。単にモスレムの国の出身者だからというだけでテロリストででもあるかのような発言。川勝知事と同じように、この先生の素の意識が発露したのだろう。


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