今日ときめいた学習風景164ー歴史を教えるとは?
(タイトル写真は日本経済新聞から転載)
「人は過ぎ去った事象そのものに出合うことはできない。自分の生活経験や想像力を通じて、経験していない過去を現在とつながりのあるものとして把握する。自分につなげないと歴史を認識することはできない」
と下記の記事で書いた。
こんな思いを授業で実践している先生の授業風景を6月23日慰霊の日のNHKニュースで見た。沖縄の小学校教員 米須清貴先生の平和学習の授業。5年生の児童に先生が質問する。
先生 「語り部の人がアメリカ兵から食べ物をもらった
と言っていたけど、アメリカ兵はなぜ食べ物を
(日本人に)あげたの?」
児童1 「あげるほどたくさんあったから」
児童2 「でかくしてアメリカ軍を信用させて、兵隊にす
る」
児童3 「日本人と仲良くなりたかったから」
先生 (防空壕に隠れている時)「投降するかしないか、
どちらを選ぶか?」
児童4 「どっちを選んでも死ぬとしても、可能性がある
方にかける」
児童5「早めに出て行って投降して助かる可能性にかけ
る」
児童6「投降しない。日本兵が目の前で殺したのを見た
から、、、」
米須先生は平和学習のあり方について、次のように語る(要旨)ーー
「自分の家族の中にもう戦争を体験した人がいない状況の中では、戦争体験者の証言が児童に必ずしも伝わっていない。話が残らない。体験を教えるとか、伝えるとかということは言うほど簡単ではない。
受け身になって(情報を)もらうというだけではなく、我がこととして考える。そこに自分の感覚を出して『えっ、なんで。自分だったら逃げるのに』『自分だったら行かないのに』と思う。この疑問が大きな疑問につながって行って、『沖縄戦ってなんだったんだろう』という学ぶ意欲とか姿勢につながっていくと思う。
おかしいと思ったら、手を挙げておかしいと言わないといけない。だんだんみんなが間違った方向に進んでいって、気がついたらもう後戻りできない状況になっていたということを沖縄戦を通して学んでほしい。それは今につながる学びになる。市民としてどう生きていくのかという。
また心情的なものだけでなく、こう言う状況になってきたら戦争が近くなってくるんだな。こういう悲惨なことが起きるよなと。問いを持って沖縄戦と向き合うことで問いが広がる」
沖縄には戦争の痕跡が身近にあるのに子供達の意識を素通りしているという。ましてや遠く離れた地にいる我々など他人事としてしか受け止めていない(心に罪悪感を感じながらも、、、) 夏になると戦没者を悼む式典が毎年行われ、どこのテレビ局も特集番組を放送するが、形骸化された内容に胡散臭さを感じてしまう。戦争体験者の「戦争は2度と起こしてはならない」の叫びをよそに、日本政府は着々と戦争ができる国になっていく。台湾有事の際の避難民受け入れ割り当てまで策定したという。もう一度米須先生の言葉を心に刻もう。
だんだんみんなが間違った方向に進んでいって、気がついたらもう後戻りできない状況になっていたということを沖縄戦を通して学んでほしい。