新屋山神社の金運・開運は地に足がついた変化だった
金華山の軽やかな金色(こんじき)の粒度もさることながら
山梨県にあるこちらの新屋山神社は
金運を賜るにあたり
着実に歩め〜ぃ
足元よく見ろぉ〜
滑落すんなよー
との教え(お声?)をインストールしたように感じた
おかげさまでか、
苦手だ無理だと思っていた早起きと、
「そんなマッチョなガッツは私には保たない」
と思っていた執筆投稿も、
ふと気づいたら
両方やれてしまっていて
さらに持続性がある
という現実を生きている
起きないと起きろーと言われ
書かないと書けよーと言われ
「はわっ、そうだったぁ」と我に帰るように
お気に入りスペースのクッションにもぞもぞと座って綴り始めるのであった。
追伸
やはり、書こうと構えると、からっきしダメだね。
何も書けないか、頭でこねくり回すような窮屈さを感じて、まとまらない。
「だいたい同じような時間に寝て起きる」
までは変わらないけど
起きたら書くもの、という「行動」がルール化していると感じた瞬間からその枠組みが足枷に感じられて脱出したくなる模様。
「べつにー。毎回同じように創作できると思わないで!そんな人には今日はなんにも出てきませーん。」
という・・・気まぐれさと、捉えどころのなさも含めて自分を受け入れることだなと思った。
「書こう」と頑張ってみたものの、捻り出しているような突っ掛かり感に息苦しさを感じるところまでやったが故の着地点だったので、心の切り替えもスムーズだったかと。
ええい、やーめたやめた!
ってやつである笑
出来ないものに固執せず
出来そうなことをやるのが今日は健やかだ
と思った日は
いつもなら退屈さを感じるタスクのあれこれが面白いほど捗った。
なるほど
局所的なバランス
だけでなく
少し長い目でみたバランス
もあるんだなと感じた。
このあたりを上手く使えると
「その日やりたい事がコンプリート出来なかった」としょんぼりすることもなく
心健やかに生きられるだろうな、と。