虐待で自殺を考えた高校生が慶應に合格するまで③
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想像もしなかった進路
当時の学級担任には日頃からお世話になっていました。
瀕死の私を見兼ねて、想像もしなかった提案をしてくださいました。
「指定校推薦で大学に行かないか?」
この上なくすばらしい提案でした。なぜなら、
・評定さえあればまず落ちない
・浪人の可能性がゼロに等しい
からです。
理系東大志望の私は、自然と評定は取れていました。
ですが、その選択肢には重大な問題がありました。それは、
・指定校推薦では私立大学しか選択肢がない(=学費が高い私立理系は諦めざるを得ない)
・校内選考に通過できるまで、継続して成績を取り続ける必要がある(私の高校の成績は試験一本勝負でした)
理系クラスの人間が、理系科目の授業で評定を取って文系枠を横取りすること、また、病気を抱えてながら評定を取り続けることは、とても困難なことのように感じられました。
ですが、もうこれしか望みをかける方法はありませんでした。
さもなくば就職か、最悪病気で頼れるあてもなく収入もなくなり野垂れ死ぬか、でした。行政を頼ったところで、どこまでサポートを受けられるかは未知数でした。児童相談所もシェルターも、信用には足りませんでした。ずっと希望していた進学の道を断たれるかもしれなかったからです。
闘いが始まった
まずは、最低限の出席点を取ることから始まりました。欠席及び早退はこまめに記録し、落単しないギリギリのラインを攻める。当時のクラス担任には、その点非常にお世話になりました。
次に、学校の試験で高い点を取る必要がありました。
正直、全身の痛みと感覚過敏で椅子に座っていることすら苦しい、床を這わないと前へ進めないような状況で、文理9科目(!)を勉強し全ての科目で上位を取ることは無理難題であるように思えました。
しかし、やらなければならない。さもなくば、私の進む道は閉ざされる。失敗したら死のうと思って、まさに背水の陣だと思って、苦しみもがきながら机に齧り付きました。
正気の沙汰ではありませんでした。
毎日フラフラしながら、車道の脇を通れば飛び込みそうになり、ベランダに出れば飛び降りそうになり、心療内科の薬を前にすれば同時に多量摂取しそうになり、、
意識が朦朧としていました。他者との会話は成り立ちませんでした。長期記憶は当てにならないと分析したから、短期記憶に全てを賭けました。
そうして、一日平均9時間勉強しました。
ひとの冷たさと暖かさを同時に知った
私の苦しみに対し、周りの多くは無関心、あるいは理解がありませんでした。やはり経験した痛みでないと、共感できないのです。
しかし同時に、多くのやさしい大人に助けて貰いました。
精神的な病を経験したとある先生には、個人的にたくさん相談に乗っていただきました。
教科担任や保健室教諭の方々もそうでした。
学級担任には、両親と私との間を取り持っていただきました。
市町村がやっている相談室や児童相談所の方々は、対面や電話の相談に応じてくださいました。
通っていた心療内科の主治医も、高校生の私に対して割と良心的でした。(彼が、私が発達障害ではないことを教えてくれました。)
人を信じることを知らなかった私にとって、こんなにも助けてくれる人がいることは、とても大きな驚きで、雷に打たれたような衝撃でした。
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