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マシュー・バーニーと日本スポーツ美学論について

経緯

本記事には現代美術作家マシュー・バーニーについての文章を2本(「拘束と超回復のスポーツ美学──マシュー・バーニー『拘束のドローイング』から『クレマスター・サイクル』へ」と「超回復の美学──マシュー・バーニー『拘束のドローイング』から『クレマスター・サイクル』へ」)併記した。これらの文章が生み出された経緯としては、今から約2年前に「マシュー・バーニーについて書いてほしい」との依頼があり、まず前者は中井正一、中村敏雄、蓮實重彦のスポーツ論を用いてマシュー・バーニーを論じたものを提出したが、当時の編集担当に「哲学の語彙を少なくしてもう少し、入門のようにしてもらいたい」という指摘をもらったために後者の論考が生み出されたということがある。後者に関しては、マシュー・バーニーの製作過程をめぐるドキュメンタリーなどをメインで参照し、スポーツ論に関しては蓮實重彦に言及するのみにとどめた。しかしこれらの原稿は、寄稿していた雑誌自体が頓挫してしまい、発表の機会を見ないまま1年半ほど経過してしまった。そしてこの度、雑誌としての公開の確率がほぼないとの連絡をいただいたため、自主的に公開させていただく運びとなった。論考自体は2年以上前に書いたものであり、今考えると未熟なところが散見されるが当時の思考の記録として公開しておきたいと思う。尚、第一部に関しては両者ともほとんど差はなく、二部と三部から両者の論旨が変わってくる。そのため、パターン2からは第一部「1:ウェイトトレーニングとしてのマシュー・バーニー作品」を割愛した。パターン2のみ読む場合もパターン1の第一部から読み始めてほしい。主にマシュー・バーニーに関心がある方はパターン2を、スポーツ美学論に興味がある方はパターン1をお読みいただくことを推奨する。


パターン1:拘束と超回復のスポーツ美学──マシュー・バーニー『拘束のドローイング』から『クレマスター・サイクル』へ

幸村燕


 1:ウェイトトレーニングとしてのマシュー・バーニー作品

本論考はアメリカのパフォーマー・マシュー・バーニー(1967-)によって一九九〇年代から続けられた作品群である『拘束のドローイング』シリーズを中心にマシュー独自の美学を論じるものである。


『拘束のドローイング』シリーズは一九八七年から続く映像パフォーマンスシリーズであり、一九九四年から二〇〇二年の間に映像や彫刻を交えて作られた『クレマスター・サイクル』と対をなすマシューの代表作である。自伝的要素と神話的要素を含みながら身体改造や変身を行う『クレマスター・サイクル』が身体の自由な変身をテーマとしているのに対して、『拘束のドローイング』シリーズは拘束など何かしらの身体的制限を授けた状態でその制限に抗いながらに絵を書いていくプロセスを記録したものであり、不自由な身体がその不自由に抗いながらその制限を乗り越えていくことがテーマとされている。例えば一九八八年の『拘束のドローイング2』では、自らの腰につけたハーネスが部屋の中心とロープのようなもので結び付けられているという状態に置かれたマシューが予め自身によって部屋に打ち付けた板やバーなどの障害物を乗り越えて壁面に絵を書いては中心に戻されるというプロセスを記録し、それを一つの作品として提示している。一九八九年の『拘束のドローイング6』ではトランポリンで飛び跳ねながら天井に絵を書き、また二〇〇五年の『拘束のドローイング11』ではクライミングの要領で美術館の壁面を登りながら絵を書いている。ギャラリストのバーバラ・グラッドストーンは『拘束のドローイング』シリーズについて「あえて体の動きを制限するから描き終えた紙より一連のプロセスが重要」(アリソン・チャーニック監督, マシュー・バーニー:拘束ナシ,マシュー・バーニー,ビョーク、ジャック・ヘルツォーク ほか,2007,トモ・スズキ・ジャパン,DVD,より)であると述べている。要するに『拘束のドローイング』シリーズでは制限された中でのドローイングを通じて身体が障害を乗り越えていくプロセスが提示されているといえるだろう。バーバラ・グラッドストーンが続けて述べるように「何かをする時邪魔や負荷を作りそれを超えれば成果が増すというのが拘束のドローイングの基本」(Ibid.,より引用)なのである。野々村文宏が指摘しているように、この理念はウェイトトレーニングの理論的基礎である「超回復」という筋肉の働きを元にしている(『東西南北』(2008)収録、野々村 文宏「生気論と機械論の対立を超えて--マシュー・バーニー『拘束のドローイングNo.9』に見る非定形な造形と力 (研究プロジェクト 聖なるものと批判理論)」参照)。野々村は「白い展示空間のなかで、パフォーマーたる作家の身体能力、端的にいえば筋力は、パフォーマンスを繰り返すうちに増強され、運動の軌跡はより大きく高くなり、それまでの空間と人体の対応関係を更新していくのである」(Ibid.,より引用)と述べている。グッゲンハイム美術館のナンシー・スペクターが「振り出しに戻る循環構造があり試練を乗り越え成長するとの考えがマシューの全作を貫く」(アリソン・チャーニック監督, マシュー・バーニー:拘束ナシ,マシュー・バーニー,ビョーク、ジャック・ヘルツォーク ほか,2007,トモ・スズキ・ジャパン,DVD,より)と述べているようにこの理念は他のマシューの作品にも通底しているものである。『拘束のドローイング』シリーズと対をなす『クレマスター・サイクル』でも当然この理念は作品の基礎に据えられているが、『拘束のドローイング』シリーズとは真逆の点が強調されている。マシューは『クレマスター・サイクル』で表象されている身体を「エントロピー」と称して次のように述べている。

「クレマスター・サイクル」の映画にはかなりはっきり物語のなかに存在しているけれども、彫刻作品には不在の「キャラクター」をつくろうとしていたのです。それはエントロピーというキャラクターで、より非物体的な、離型したときに形をとどめない作品をつくりたいと思っていました。「クレマスター」は私にとってそういう働きをする側面があるんですよね。5つの個別の物語に結実しているとはいえ、作品自体はもっと形を持たないものであり、当時はそれを彫刻的に表現することが重要だと感じていました。

聞き手=アリソン・スペラシー 翻訳=田村かのこ,“インタビュー:マシュー・バーニーはなぜ日本を舞台に「拘束のドローイング」を生み出したのか?”,美術手帖,2021.03.21,(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/23750)(2023.08.11アクセス)

『クレマスター・サイルクル』という一連の物語にはエントロピーというキャラクターが存在し、このキャラクターが絶えず形を変えながら動き続けている。『クレマスター・サイクル』はこのエントロピーを流動的な彫刻として表現することを志向した作品なのである。


 『拘束のドローイング』シリーズではウェイトトレーニングにおける負荷とその反発の部分が強調されているとするならば、『クレマスター・サイクル』の方は負荷からの解放による身体の「超回復」的発達という変容のダイナミズムに力点が置かれている。肉体の拘束と解放は筋肉トレーニングとストレッチの関係のように互いに両者を成り立たせる条件となっている。ニューヨークタイムズのマイケル・キンメルが「『クレマスター』自体が拘束からの創造」であり「『拘束のドローイング』の産物が『クレマスター』」(アリソン・チャーニック監督, マシュー・バーニー:拘束ナシ,マシュー・バーニー,ビョーク、ジャック・ヘルツォーク ほか,2007,トモ・スズキ・ジャパン,DVD,より)であると述べているのは、このような両作品の相補性を踏まえてのことだろう。ウエイトトレーニングのプロセスを経て変容していく身体の可塑性こそがマシューの作品の中心なのだ。もちろん、ここでのウエイトトレーニングとは実際の身体に関するものというよりはもっと観念的な身体性に関わるものである。

2:中井正一、中村敏雄、蓮實重彦へ迂回するスポーツの美学


 このように、バーニーの作品には負荷と回復による身体の変容という体育学的ないしスポーツ学的な身体論が深く根ざしている。これにはアメリカン・フットボール選手としてイエール大学入学し医学を学んだ後で美術と体育学を学んだという彼の特殊な経歴に起因するものであろうが、しかし彼の提示する身体性はこれらが一般に提示する身体の理解を遥かに越え出ている。バーニーはスポーツ経験と体育学や医学における身体の理解をより観念的な次元にまで昇華させている。この観念的次元を通した身体の可能性こそが彼の体育的ないしスポーツ的美学なのである。バーニーにはボールのないアメリカン・フットボールを題材にした二二十三年の作品《セカンダリー》(ALEX GREENBERGER,“カリスマ的作家マシュー・バーニーの新作は、アメリカンフットボールを題材にした残酷な衝撃作"ARTnewsJAPAN,2023.05.23,(https://artnewsjapan.com/article/1050)(2023.08.11アクセス))の他にもスポーツをモチーフにした作品が多く存在している。スポーツは超越論的規則によって選手の身体を拘束する。このような規則に拘束された身体の抵抗プロセスこそがバーニーの主眼である。

 このバーニーの美学を理解するには日本の美学者・中井正一(1900-1952)や批評家・蓮實重彦による「スポーツの美学」に関する議論を参照するのが有益であろう。彼らの議論は文脈の違いや依拠している理論の違いはあれど、その議論はスポーツに関する普遍的な美学論の域に達しているためスポーツの美学の変異体としてバーニーの美学を位置づける足がかりになるように思われる。そのため本章では一旦バーニー作品における美学を脇に置き、日本における「スポーツの美学」論を整理することにする。

 中井正一は「スポーツ気分の構造」の中で主にマルティン・ハイデガーの「気分Stimmung」と空間に関する議論をスポーツに応用し、独自のスポーツ論を展開している。少し長いが「スポーツ気分の構造」(一九三三年)よりスポーツの空間論がより顕著に現れている箇所を引用することにする。

 

 グラウンドに入った瞬間、目を射るような幾条もの白線、直線、曲線、円、楕円それらのものの前にまず人々は緊った興奮を感ずる。この興奮は、もし人が気付くならば、線が、あるいは楕円が単なる物理的空間である場合とは異なったものを持つことを知るで  あろう。

中井正一 「スポーツ気分の構造」

 即ちその白い線の一々はそれに沿って人間の肉体と技術の全機能を挙げて走り戦い争うところの血の構成の一部分であることを理解しているが故である。そこでは物理的間隔Abstandは単なる間隔ではなくして、それを走破し、追い抜き、到達しつくすべき存在的距 離Entfernungである。この単なる間隔を身体的力によって距離的性格に転換するところの転換契機が即ちこの緊張した気分の中に働いている。それはハイデッガーの構成概念を借りて用うるならば、範疇的性格を実存疇的性格に転換するところの中間的性格をもっ ている。「何々まで」あるいは「何々のために」と言うところの道具の有意義性における距離とはそこでは一応遊離して、ただ「にまで」「のために」と言うその距離そのもの、追い抜き突破し、到達しなければばならないことそのもの、有意義性そのものが明るみに浮上って来るのである。その限りにおいて意味そのものを意味する。人間の肉体活動が血と筋肉の構成機能をもって自ら「にまで」の存在と成ることによって、実存的構造を明るみにもたらすのである。そこでそれは血と筋肉によるところの存在の解釈Auslegungの性格をもつ。

 ここで中井が主に念頭に置いているのはトラック競技などコースがあるものであるが、この後に中井が敷衍させるようにこのスポーツ空間における存在論的距離はあらゆるスポーツに適応される。スポーツにおいては白線、直線、曲線、円、楕円などのあらゆるラインが単なる物理的間隔とは異なり、そのスポーツ固有の空間の規定へと転換される。これにより現存在たる人間はスポーツという別の世界の世界内存在として事物を認識し、通常の世界とは異なった「にまで」「のために」と言う有意義性そのものとして立ち現れるようになるのだ。中井はこれによって「実存的構造を明るみにもたら」されると述べているが、このスポーツの空間論を超越論的な次元に還元することも可能だろう。つまり、スポーツの空間論的ポテンシャルはスポーツ固有の法によって現実の法における道具性が転換されあらゆる事物が別様になり得るということである。「気晴らし」を意味するラテン語『deportare(デポルターレ)』を語源とするスポーツは現世界が存在する世界から離れて別様の規則の中で生きる「気晴らし」を与えるものなのであるとも言えるだろう。中井の議論がこのような方向に向かわないのは彼の議論の主眼が空間性と形式性に置かれており歴史的時間を意図的に廃棄しているためなのであるが、我々は彼の議論を引き継ぎながらスポーツのルールの歴史性を考慮にいれることによりスポーツ空間を規定している規則という超越論的な次元の方へと議論を移すことも可能である。

 彼はここで参照したいのは中井よりも約30歳ほど年下の体育学・スポーツ学者中村俊雄(1929-2011)である。『21世紀スポーツ大辞典』(二〇一五年)の編者でもある彼はスポーツルール学というスポーツルールの変容についての歴史学ないし民俗学的手法を用いた研究を確立している。彼の研究は「ラグビーボールはなぜ楕円なのか」、「アメリカンスポーツにのみメンバーチェンジのルールが適用されたのは何故なのか」「ネットスポーツの中でなぜテニスだけがネットの側面を通過することが可能なのか」など多岐にわたり、それらのルールが社会的背景ないし歴史的背景から解き明かすものである。彼の研究によってわかるのは、スポーツのルールが全くの偶然によって変容あるいは残存していくというルール確立の歴史的プロセスである。中村が述べるように「スポーツ・ルール学は、過去のスポーツのルールを主たる研究対象としながら未来のスポーツの在り方をも展望するという課題をもっている。したがって過去のスポーツのルールの成立や変化とそれに影響を与えたさまざまな要因や条件などを考察の対象とせざるをえないが、同時にこれが後代的視点から行わざるをえないということから生じる、「別のルール」が考えつかれなかった理由や条件は何であったのかということも追課題とせざるをえない(『スポーツルール学への序章』p.13-14)」。しかし、同時に中村が述べているように「無数といってもよいこれらの「なぜ」に性格に答えられることは極めて少なく、ほとんど答えられないといってよいし、たとえ答えられたとしても、それに対する次の「なぜ」が発せられて答えるのはさらに困難、というよりも不可能に近い」のである。要するにスポーツのルールは個人を超えた歴史的成果であり、我々の存在ではその起源を把握しきれない非合理的かつ超越論的な規定なのだ。

 このような点を踏まえて中井の議論に戻るならば、「実存的構造を明るみにもたらす」スポーツの空間規定が我々の把握しきれない拘束であることがわかる。しかし、これはスポーツの実存的性質であり、中井が提示する「スポーツの美学」にとっての基礎的なものしかなくそれ自体が即スポーツの美しさに直結するわけではない。中井は「スポーツ気分の構造」より先に記した「スポーツの美的要素」(一九三〇年)の中でスポーツの競争性のおける美的要素を次のように述べている。

 

  競争者ABにおいて「Aが勝つ」の判断と、「Bが勝つ」の判断が相互否定的であるにもかかわらず、同一主観の判断構造の中に共在する場合、論理的判断としてはウィンデルバンドのいわゆる無関心的零点としての判断型態であるにもかかわらず、その二つの判  断構造は一つの力の緊張シュパヌングとして相干渉して他の類型の判断構造となる。換言すれば判断構造は一つの「力」の場として収斂型態を取る。この判断構造は一般に「賭」の判断構造のもの、蓋然的期待感情の内面的構造である。この力の場としての期待   感、これこそ近代人のいわゆる戦慄 thrill なのである。〔略〕しかしそれは観覧者のもつ勝敗の期待感である。これが競技者においては、チームAB……の闘争において「Aが勝つ」「Bが勝つ」の相反的判断が共在して緊張的構成を形成するにしても、自らが属す  るチームがAあるいはBである。もし仮にAであるとすれば「Aが勝つ」の判断は可能性であるよりもむしろ必然的である。すなわち可能的なるものを必然的ならしむるところに意志の構造がある。

中井正一「スポーツの美的要素」

つまり、スポーツの競争的側面においては競技者同士の「自身が勝つ」という意志が双方の緊張関係の中で競り合っており、その「自身が勝つ」という可能性を必然性へと昇華させるプロセスにこそスポーツの競争性の美的要素があるということである。つまり、競争における両者の鍔迫り合いの持続の中にこそスポーツの美学があるのだ。

 この持続の美学をより徹底したのが蓮實重彦による「スポーツの美学」だ。「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護に向けて」と題する論考の中で蓮實は「運動にあるのは、持続にほかならず、結果としてのその軌跡には到底還元されがたい」と述べ、続けて「結果を想定しているのは、あくまでスポーツの規則です。規則とは、スポーツが無限の運動であることを抑制するための文化の体系にほかなりません。運動はどこかで始まり、どこかで終わらねばならない」としてスポーツのルールという文化的抑制と運動の持続を対立させている。しかし、運動の持続はルールという文化的抑制に服従してばかりではない。「不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること。それを、運動することの「知性」と呼ぶことにしましょう。これは「知識人的」であることとはいっさい無縁のものですが、それを周囲に組織する能力を、運動することの「想像力」と呼ぶことにしましょう。「知性」と「想像力」とが一つになったとき──ごく稀なできごとなのですが──そこには動くことの「美しさ」が顕現します。だから、「美しい」選手がいるのではない。選手が「美しさ」を体現してしまう瞬間があるというだけなのです」というように蓮實が運動の「知性」という野蛮さは文化的抑圧を超え出ていき、この野蛮さはそれを組織する「想像力」と結びつくことで「美しさ」が体現されるのである。この点において蓮實の「スポーツの美学」は中井の競争性の美的要素の発展系と言えるだろう。

 これらの議論を整理するならば、中井正一の「スポーツ気分の構造」は文化的抑圧の中で現存在が存在論的距離としての空間を開いていくというスポーツの実存的性格が提示されており、中村敏雄の議論ではその文化的抑圧の超-個人的歴史が示された。これらは文化的抑圧それ自体の可能性を論じたものである。一方、文化的抑圧の中で勝利に向かっていく意志のぶつかり合いという力学的美しさを見出す中井の「スポーツの美的要素」と文化的抑圧の中で運動の持続がその抑圧を蹂躙する瞬間に美しさが見出されている蓮實重彦の議論では、文化的抑圧の中でそれに抗う運動のダイナミズムが論じられている。


3:超回復の美学


 やや我田引水的なきらいはあるが、二章で整理した「スポーツの美学」はバーニーの作品における美学を理解する上で有益な材料となるように思われる。中井正一と蓮實重彦の議論を踏まえるのならば、「何かをする時邪魔や負荷を作りそれを超えれば成果が増す」バーニーの作品において邪魔や負荷という拘束は文化的抑圧としてバーニーの身体を身体論的のみならず超越論的にも拘束するものであり、その拘束の中で働く運動の持続というプロセスの中で、「それまでの空間と人体の対応関係を更新していく」超回復的な瞬間こそが蓮實のいう野蛮さないし運動の「知性」といえるのではないだろうか。ある拘束はバーニーの空間を物理的間隔から存在論的距離に変える文化的抑圧として働き、その拘束に抗うエントロピーという名の運動の持続が運動的「知性」と運動的「想像力」の一致する野蛮な超回復の瞬間を導き出す。この一連のプロセスこそが「拘束のドローイング」シリーズにおける美学であり、このプロセスを反転させ文化的抑圧から解放された終わりなき超回復的変容こそが「クレマスター・サイクル」の真髄なのである。バーニーはスポーツにおける文化的抑圧と解放的瞬間という美的要素を抽出し、より純化した形で自らの作品に昇華させているのである。


パターン2:超回復の美学──マシュー・バーニー『拘束のドローイング』から『クレマスター・サイクル』へ

幸村燕

2:蓮實重彦へと迂回するマシューの美学


 このように、マシューの作品には負荷と回復による身体の変容という体育学的ないしスポーツ学的な身体論が深く根ざしている。これにはアメリカン・フットボール選手としてイエール大学入学し医学を学んだ後で美術と体育学を学んだという彼の特殊な経歴に起因するものであろうが、しかし彼の提示する身体性はこれらが一般に提示する身体の理解を遥かに越え出ている。マシューはスポーツ経験と体育学や医学における身体の理解をより観念的な次元にまで昇華させている。この観念的次元を通した身体の可能性こそが彼の体育的ないしスポーツ的美学なのである。マシューの作品の中にはボールのないアメリカン・フットボールを題材にした二二十三年の作品《セカンダリー》(ALEX GREENBERGER,“カリスマ的作家マシュー・バーニーの新作は、アメリカンフットボールを題材にした残酷な衝撃作"ARTnewsJAPAN,2023.05.23,(https://artnewsjapan.com/article/1050)(2023.08.11アクセス))などのようにスポーツをモチーフにした作品が多く存在している。スポーツは超越論的規則によって選手の身体を拘束する。このような規則に拘束された身体の抵抗プロセスこそがマシューの主眼である。

マシューの作品における美学的な要素を理解するためには、スポーツの美学を理解することが有効である。特に蓮實重彦(1936-)が「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護に向けて」と題する論考の中で提示したスポーツの美しさの理論はマシューの美学と通底する部分が多く見られる。そのため、本章では蓮實重彦「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護に向けて」におけるスポーツの美学を整理することでマシューの美学との比較を行いたい。

 「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護に向けて」の中で蓮實は「運動にあるのは、持続にほかならず、結果としてのその軌跡には到底還元されがたい」(蓮實重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(2004,青土社)収録,「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護に向けて」11頁より引用)と述べ、続けて「結果を想定しているのは、あくまでスポーツの規則です。規則とは、スポーツが無限の運動であることを抑制するための文化の体系にほかなりません。運動はどこかで始まり、どこかで終わらねばならない」(Ibid.,11頁より引用)としてスポーツのルールという文化的抑制と運動の持続を対立させている。運動は本来「無限の持続」であるのだが、ルールはこの持続を中断するものとして作用している。しかし、スポーツという文化はこのルールによって成り立っているため、スポーツにおける「持続」はルールなしにはあり得ない。つまり、文化による中断と運動の持続は対立的な関係であるとともにお互いがお互いの条件になっているという循環的な関係なのである。この論考の中で蓮實は、このスポーツの性質を映画の性質とのアナロジーとして語っているが、それは映画というものが映像の持続と編集などの映画的制約による中断という二つの力関係から成り立っているものであるからだ。だが、映画において「運動の持続」が編集やカットによる中断にただただ従属しているというわけではないのと同じように、スポーツにおいても「運動の持続」はルールという文化的抑制に服従してばかりではない。蓮實は「不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること。それを、運動することの「知性」と呼ぶことにしましょう。これは「知識人的」であることとはいっさい無縁のものですが、それを周囲に組織する能力を、運動することの「想像力」と呼ぶことにしましょう。「知性」と「想像力」とが一つになったとき──ごく稀なできごとなのですが──そこには動くことの「美しさ」が顕現します。だから、「美しい」選手がいるのではない。選手が「美しさ」を体現してしまう瞬間があるというだけなのです」(Ibid.、13頁より引用)と語っている。つまり、スポーツにおいてもルールの文化的抑圧と「運動の持続」の関係が逆転してしまうような瞬間があるというのである。このような文化的抑圧に抗する「野蛮さ」を蓮實は「運動することの知性」と呼んでいるのだ。そしてこの「野蛮さ」を周囲に伝播させ組織的に展開していく能力を「運動することの想像力」と呼んでおり、この「運動することの知性」と「運動することの像力」が一致する瞬間にこそ「動くことの美しさ」が現れるというのだ。これをマシュー風に言い換えるならば、文化的抑圧という「拘束」を受けた身体がその運動の持続によって「拘束」を乗り越える「超回復」的な瞬間こそが「動くことの美しさ」であると言えるだろう。運動の持続が「拘束」なしに「拘束」を乗り越えることはない。「拘束」によってこそ「運動の持続」が発生し、「拘束」によって条件づけられた「運動の持続」が「拘束」を否定することなく超え出ていく。マシューの作品には「拘束」と「運動の持続」の二項対立がお互いを条件としながら互いの差異が融和する脱構築的な瞬間がある。これは「運動の持続」が「拘束」を取り込んで、恰もこの拘束を自身の無限の運動の中に巻き込んで駆動しているかのような変身の瞬間である。


3:超回復の美学



「何かをする時邪魔や負荷を作りそれを超えれば成果が増す」マシューの作品において邪魔や負荷という拘束は文化的抑圧としてマシューの身体を身体論的のみならず超越論的にも拘束するものであり、その拘束の中で働く「運動の持続」というプロセスの中で、「それまでの空間と人体の対応関係を更新していく」超回復的な瞬間こそが蓮實のいう野蛮さないし運動的「知性」と言える。ある拘束は文化的抑圧として働き、その拘束に抗うエントロピーという名の運動の持続が運動的「知性」と運動的「想像力」の一致する超回復の瞬間を導き出す。この一連のプロセスこそが「拘束のドローイング」シリーズにおける美学であり、このプロセスを反転させ文化的抑圧から解放された終わりなき超回復的変容を描くことこそが「クレマスター・サイクル」の真髄なのである。とはいえ、これは哲学者エリー・デューリングが現代美術の典型として批判したようなプロセス重視型の現代美術と必ずしも一致するわけではない。勿論、マシューの作品はバーバラ・グラッドストーンが「あえて体の動きを制限するから描き終えた結果より一連のプロセスが重要」というように、プロセスを重視する側面があることは事実だ。これは一見「プロセスを通じて到達しえない理念を暗示するに留まる現代美術の傾向をロマン主義と呼んで批判する」(星野太『崇高のリミナリティ』(2022,フィルムアート社)100頁より引用)デューリングの批判対象に思える。しかし、マシューの作品においては、「運動の持続」が拘束という文化的抑制を越え出て「超回復」という物質的脱構築の瞬間が訪ずれる。「運動の持続」によって身体は拘束を内面化し、その拘束を変身の糧にする。長谷川祐子はマシューの長編映像作品『拘束のドローイング9』(マシュー・バーニー監督 ”Drawing Restraint 9”,2005年に金沢21世紀美術館での個展で発表された作品。長崎湾にて捕鯨船・日新丸の船上を舞台に撮影された135分の長編映画作品で、『拘束のドローイング』シリーズの映像作品の中でも長い)について「同化を経た脱構築が描かれる」 (『美術手帖2010年02月号現代アーティスト・ファイル 1980>>2010 Contemporary Artists Files』(2010,美術出版社),36頁より引用)と評しているが、この同化からの脱構築という「超回復」こそがマシューの美学なのである。日本の捕鯨船を舞台にし、日本風の儀式に身体が拘束される『拘束のドローイング9』が示すように、マシューにとっての拘束が儀式や振る舞いのような文化的抑制をも射程に含めた概念であることがわかる。マシューは『拘束のドローイング9』の様式について次のように述べている。


  日本の文化には、動作や行為が儀式を通してどのように形に吹き込まれるかを示す素晴らしい例がたくさんありますし、信念もまた、形に吹き込まれていきます。非常に興味深いですよね。私はつねに物語を形に落とし込む方法を模索してきて、儀式化された動作はそれをするに有用な方法であることが多いので、長年この手法を使っています。しかし、物語や場  に対する私の基本的な向き合い方としては、これらは作品のための一時的な状態であり、作品をある種のゲストとして考えるなら、ゲストにはホストとなる身体が必要で、それらは一時的な関係にあるというスタンスです。作品は発展する必要があるので、次の新しい地   点、新しい物語、新しい場を見つける必要があります。ですから『拘束のドローイング9』はいろんな意味でそういった状態、関係性の一時的な性質についてのものなのです。
 

聞き手=アリソン・スペラシー 翻訳=田村かのこ,“インタビュー:マシュー・バーニーはなぜ日本を舞台に「拘束のドローイング」を生み出したのか?”,美術手帖,2021.03.21,(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/23750)(2023.08.11アクセス)

そして、この拘束と運動の持続の絶えざる衝突はパフォーマンスとしてだけに現れているわけではない。『拘束のドローイング』シリーズや『クレマスター・サイクル』などマシューのパフォーマンス作品は映像作品という形式によって、その拘束と運動の持続が提示されている。映像作品という形式、つまり映画という形式によってマシューの拘束と運動の持続のパフォーマンスは抑制されている。それゆえ、マシューの作品においては単にパフォーマンスにおける拘束と運動の持続の「超回復」があるだけではなく、映像の持続が映画の抑制と同化しながら互いを脱構築する瞬間があるのだ。蓮實風にいえば「これ以上やると映画ではなくなってしまう限界の先」(蓮實重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(2004,青土社)収録,「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護に向けて」,34頁より引用)に、マシューの映像は向かうのである。そして映画の崩壊と共にマシューの作品はパフォーマンスがパフォーマンスではなくなってしまう限界の先に、身体が身体ではなくなってしまう限界の先に向かうのである。

 運動の持続というエントロピーは拘束と同化しながら自身の同一性を崩壊させ、無限の運動の持続の方へと絶えず自己を彫刻し続けるのである。無限の運動の持続とは永続的な運動のプロセスであると同時に「超回復」的脱構築の瞬間なのであり、その地点においてプロセスと結果は激しく循環しながら融和する。それは反文化的知性が、文化的知性と文化的抑制の中にある身体を物質的に脱構築するまさにその瞬間の出来事そのものにほかならない。つまり、マシューの作品においては、身体の物質性そのものが筋肉の「超回復」として拘束、文化的抑圧、身体的制約、映画形式、作品というあらゆる文化的なものを突き破る瞬間があるのである。



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