自分を受け入れるとはどういうことか
私が心理学という学問を学び始めてから、どれだけ考えても一向にその真意をとらえきれない問題がある。
それが本記事の主題である「自分を受け入れる」ということである。私は、もともと臨床心理学を専攻していたので、カウンセリング心理学や心理療法についても学ぶわけだが、そこでは必ずと言っていいほど登場する言葉である。
また、昨今の現代社会でも「自分を受け入れることが大切だ」と言われることが増えてきたように思う。
もちろんその背景には、自分を受け入れられずに非難してしまったり、攻撃してしまう人が大勢いるという問題があるのだとは思うが、では、逆に自分を受け入れられている状態とはどのような状態なのだろうか。
何をもって自分を受け入れているといい、自分を受け入れていない状態と何が異なるのだろうか。
私はずっとその問題を自分なりに考え絵見るのだが、一向に言語化して理解できるような気がしない。
なので、いつものことながら、これを書きながら何かしらの糸口をつかめることを期待して書いているため、まとまりのない文章が出来上がる可能性は大いにあるが、その場合はそっと閉じていただいて、それ以上読まれないことを勧めたい。
また、もし皆さんにとって「自分を受け入れるってこういうことなんじゃね?」というのがあれば、ぜひ教えていただきたい。
では、本題に入りたいのだが、まずは世間一般的な認識を議論するところから始めるのが良いのではないだろうか。
自分自身を受け入れることを、心理学では「自己受容」というので、その一般的な定義から吟味してみよう。
まず、Wikipediaによると、
と書かれている。また、一言で「自己受容」とは言っても、人によってその定義は異なるようで、有名どころで言えば、アドラーやロジャース、エリスなどがそれぞれ自己受容について述べているわけだが、恐らく共通しているのは、自分の良い部分だけでなく、悪い部分も自分だとして理解して、認めることだということではないだろうか。
アドラーは、他者との関係の中で、自身の弱さや欠点を認識し、それも受け入れることの重要性を説いており、ロジャースは自己理論の中で「自分をありのまま受け入れる」ことが重要だと述べている
ほうほう、確かに自分の好きなところを誇ることは誰にでもできるし、逆に自身の欠点はできれば自分のものではないと信じたいものである。しかし、それではだめで、その両方が自分であり、それを理解し、認め、時に愛することが重要だということだ。
そこは理解できるのだが、一方で、私が捉えきれないのは、その「認める」とはどういう状態なんや、、、ということである。
「よし、認めれた!」って思う瞬間ってどのような瞬間なのだろうか。
「自己受容ができた」と感じている人は、その感覚を手に入れたということなんだろうが、どうすればその感覚が手に入るのか、またどのようにしてその感覚を手に入れたと分かるのかを考えなければならない。
確かに自分の欠点や悪い点も自分の一部として受け入れて「そうだよな、それも私なんだよな」とやったとすれば、自分自身を非難し、自己肯定感とやら(私はこの表現を好まないが)を下げなくて済みそうである。
しかし、では、それを受け入れた瞬間に自分のダメなところに対してネガティブな感情が発生してはいけないのだろうか。
たとえば、「こんなこともできない自分はダメだな」とか、逆に「いつまでもこんなことしてる私って本当に終わってるよな」と思ってはいけないのだろうか。
実際、多くの人がそんなことを思ったことがあるはずで、さらに今も思っているのではないだろうか。
私も時々そんなことを思う。「こいつ誘惑に弱いな」とか「そんなこともまともにできないんかい」と、自分に思うことは当然ある。
それすらも禁じられるということなのか。
誰かは忘れてしまったが、ある人は「そう思った自分すらも受け入れるべきだ」と言っていた。なるほど、「そう言っててもいいんだ」と思えということか。
確かにそれはごもっともだが、もしそれができるのならば、誰もそんなことでは悩まないのではないか?
皆、ろくでもない自分がどうしようもなく嫌いで、自分を責めることに疲弊し、どうにかこうにかする術はないかと調べた結果、「自己受容」という言葉に出会い、実践しようとしているわけだ。
自分のダメなところも受け入れよう、という決意のもと、それでもどうしてもダメなところを非難したくなってしまう。それすらも禁止されてしまっては、自己受容など夢のまた夢になってしまうだろう。
しかし、これだけ多くの人が「大事だ」と言うということは、それだけの人間が「自分は自己受容ができている」と思っているということだろう。
なぜなら、自分ができて、何かしらメリットがあったからこそ、その重要性が説けるようになるからである。
だが、実際、その人たちが何をもって「自己受容している」と言っているのかは分からない。
なので、私が今のところこうではないかと思っている自己受容について述べようと思う。
結論から申し上げると、自己受容とは「自分のことで一喜一憂しないこと」ではないかと考えている。
経済学者の成田悠輔さんの言葉を借りるならば、まるでそこに川が流れているかのように、自分という人間を、そして、自分という人間が引き起こす事象を眺め、それをまるでスケッチするかのように、脳内に書き留めていくことが自己受容だろう、と考えている。
つまり、自己受容とは、自分のダメなところや嫌いな一面を好きになったり、それに対する印象を好転させるということではない。
あくまでニュートラルに、「あ、私ってこんなこと思うんや」とか「あ、自分はこれができないんだ」と、少しずつ自分についての情報を蓄えていく感覚である。
それは、言い方を変えれば、自身の行動や価値観、修正に対して、余計な解釈を加えないということであり、何も考えずに起きたことを楽しむことができれば、自己受容はおのずと完成するのではないかと、ひそかに考えている。
つまり、欠点がある自分でも満足するなんてことはしなくていいし、なんなら、少し矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そんな自分を受け入れようとすらしなくていい。
なぜなら、そこに感情が発生してはいけないからだ。一喜一憂しないということは、自分に対してポジティブな感情を抱いてもいけないわけで、自分のことを好きになったり、自分の欠けた一面も愛そうなんて絶対にやってはいけない。
変に仕掛ければ、それは悪い方へと転じる可能性があるからである。逆に0には何を掛けても0である。
したがって、自己受容とは、自分という人間に対して、またその周辺減少に対して一喜一憂しないことではないかと考えている。
もちろん異論や、修正、補足は大歓迎である。しかし、「それは違う」とか「何を言ってるんだ」というだけの意見は受け付けない。ぜひ、否定だけでなく、反論を期待している。
海野華月