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わたしは発達障害を知らない

誰と話したらいいのか分からない。

わたしは福祉的な制度を利用する必要があるのか、

思考回路を繋ぎ直す必要があるのか、

よく分からない。

自分の来た道行く道に、物語を投影しているだけなのかもしれない。そう思うことがある。

そのときの来た道をしっかり捉えられている確証もない。

投影に過ぎなくとも、自分に道筋を見出さなければ、進むことができないと、反論する。

わたしはただの不良なのだろうかという問いがよぎる。

それなら不良も心優しい人だったんだなという想念は措いておいて、

それでも黙って苦労するのは嫌だと思う。
声を上げようと思ったことを思い出す。

でも発達障害のことをわたしは知らない。

空気を読むことが不得意。
表情の変化が小さかったり、
声音の変化が小さかったり、
言葉遣いになんとなく傾向があったりする……。
一般的な社会生活で、一般的な人より疲れる。

単純作業が得意。好き?
定義や命令に忠実になることに苦労しない?
興味をもったものに向かい続けたり、そちらに突き進んだりする?

さっきまで手に持っていたものが手の中になく、どこに置いたかという情報がすぐに出てこない。
持ち物のいくつかを鞄に入れるのを忘れる。
何かに従事しているとき、他のことをぽんぽん思いつく、思い出す。

喧騒の中で目の前の人の声だけを聞き取ることが難しい。しょっちゅう聞き返す。
相槌を打つことと話をしっかり聞くことが両立しない。聞いていれば相槌の余裕はないし、相槌を打てば話の内容なんて頭に残らない。
そもそも口頭で会話すると、話の全体像が見えない。一問一答になる。終わってみると何の話をしたのか明瞭には思い出せない。
話し始めが遅れる。言いにくい内容かと察されて、相手がまた話し、こちらは言う機会を逸する。内容のために口ごもったのではないのに。わたしは処理速度の問題だと思っている。会話を続ける意欲が低いと判断されることもあると思う。反応を待っていると思われることも。全ては誤解だ。テンポの違い。

発達障害の特徴? 特性? としてよく挙げられるものから、
発達障害に関係すると思う、わたしにおける常識まで、一息に挙げてみた。
ASDとADHDでパラグラフが分かれていたがどちらなのかよく知らないものが出てきて3つ目のパラグラフにしたので分かれ方は黙殺してくださって構わない。上の2つのパラグラフもきちんと分類されているのか分からないし。

そもそもはっきり分けられるものなのか?
医学的に研究したら分かれていることに納得するのだろうか。
どちらにせよ自分にとっては、ASDとADHDのどちらに分類されるとしても同じことだと思う。主体として自分が見るのは、自分にそういう性質があるという一点である。

ともあれ、そういう性質があるということは、説明されて知る。
逆に世の中の多くの人の人生にそういう要素がないことを知って、世界の見え方がまたひとつ変わる。

けれど、例えば大学の授業に2コマ出て、そのあと部活に行き、碌に喋らず、「今日の自分は使い物にならなかった」と思い返すことは、発達障害が理由になるのか?

10時間寝て移動中も寝て、それでも頭にもやがかかったようで心にも疲弊を感じて過ごすことは、発達障害にるものなのか?

体が怠いから大学に行かないことはただのさぼりか?
意志の弱い軽薄なさぼりか?

バイトの職場に出勤時刻までに到着するために移動を始める時間が迫っていることを認知しつつ、自分が行動を起こさないから、ぎりぎりの時刻に欠勤の連絡を入れることは、怠慢なのか?
ついでに言うと連絡を入れるだけでも社会での振る舞いをひとつ身につけたと評価したい。

わたしはこれまでほぼ健康的に、生きてこられたけれど、それはわたしが扶養される身分だったからにほかならないのかもしれない。
思考する時間をもてた。ストレッサーを遠ざける期間をもてた。
学校に在籍するだけで、社会の一員であれた。

いつまでもこうはいられないのかもしれない。
思い描く、内面のありようのようなものを、守り通すことはできないのかもしれない。生活のために。
生活することに憧れる。
でもそれをきっと自分ではやりたくないんだと思ったり思わなかったり。

診断が下りたから勘違いした、ただの怠け者なのだろうか……。
だったらどうしよう、恥ずかしいかな、もう表を歩けないかな、頑張らなきゃいけないのかな、健やかに生きていけないのかな……。

でも、まず、わたしが大変だということは本当だ。
この大変さは幻ではない。
厳然とここにある。

そのことを心の真ん中にもっていないと、わたしは健やかな精神状態で生きていくことができないと思う。


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