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読書記録-臨済録・無門関①

 ずいぶん昔に書いたものを手直ししたものである。「臨済録」を読み、リベラルアーツで話し合ったことをもとに自分なりの解釈に発展させたものだ。なお、以下の文章はおそらく4月ごろ書かれたものであるため、文中での「最近」とはこのころのことである。


 2月ごろの話である。フリースクールで、歴史の授業が始まった。これは有志達がイマンモに頼み込んだおかげで最近始まった日本史の授業なのだが、このころは平安時代。鑑真・空海・最澄・行基などの活躍について触れていた。おそらく1ヶ月後には平安時代も終わりを告げ、しばらく僕が「与一!与一!」とからかわれることであろう。
 そんなことを思っていて、昔読んだ本について思い出した。「臨済録」「無門関」の2冊だ。一番印象に残っているのが「如何是佛法大意」と「這風顚漢」というのがなんともいいがたいが、随分と面白かったのは覚えている。
 最近これを読み直すことがあった。昔はただ読み流すだけだったが、最近になってようやく自分なりの解釈が出来るようになった。
 たとえば臨済録行録四にて「黄檗」に「維那」が打たれた理由だが、これについては直前にて維那の口にした「和尚、この気狂いの無礼を許しておけましょうか」との言が原因だと考える。
 読んでいるうちに自ずとわかってくるのだが、この黄檗や百丈、臨済の「禅宗」は他の宗派に比べて随分と肉体的な面がある。決して少林寺のように拳法を教えているわけではないが、とっさの判断力はどんな道に進んだとしても有効だろう。
 よって、この維那が打たれた原因は、自分で思考しなかったことにあると考える。フリースクールのメンバー達と(イマンモ主催で)何日かに一度テーマを決め、それについて意見をしあうのだが、少し前のテーマは「悪」についてだった。
 その対極として扱われる「善」については孔子・カントなどから幾つか引用して意見を戦わせたのだが、「悪」はその反対であるなどとは決して言えない。
 僕にとっての「悪」は、「自分で考えて行動しないこと」だ。もちろん、その対極が全て善というわけではないが、僕は「悪」とはここにあると考えている。
 自分で何も考えない。考えたくない。だからこそなにも出来ない。出来たとしても、それは指示に従って動いただけのこと。考えたとしても、それは本や論文などから引用してきただけのこと。自分自身で決断を下さない。自分で出来ないから、出来ることが羨ましい。羨むけれど、なにも出来ない。「どうすればそうなれるのか」考えず、仮に考えたとしても実行しないから。
 この「維那」は、意見を求めた。ほかになにもしなかった。それを見て黄檗は打った。仮にも雲水(弟子?)を統括する立場なのに、自分ではなにもしなかったから。
 「意見を求める」そして言われたとおりにする。そうすれば全て正しいから。間違っていても自分は「無実」だから。そうなったときは、「意見を出した者」、「指示した者」のみが正しい。そんな風に考えて自分を正当化する。
 その理由は単純明快。自分は何もしていないからだ。けれど、それが果たして正しい行いなのだろうか。
 臨済や黄檗の禅宗では、即断即決が美徳とされているはずだ。間違っているかも知れなくても、自分で考えてすぐさまそれを行動に移すことが出来る。言葉で対抗できるなら言葉で。それが出来なくなれば逃げる、打つ。
 言い負かされようが、打たれようが命に別状はないわけだから、その分の経験を次に活かすことが出来る。そうして即断即決を繰り返していった結果、どんな問いにも最適解を持って即答する禅の維那や坊さんのことを「悟りを開いた」というのではないだろうか。
 もちろん、それを実行することはとても難しい。「悟りを開」かなければその境地にはたどり着けないのだ。僕などはすぐに判断を停止してしまうことがある。もちろん、可能な限りそれは減らしたほうが良い。そこでよいのが、奥多摩合宿だ。
 学校の授業は強制力があるため、自分で学習を停止してしまうことはない。周りに注意されてしまうから、僕のような小心者は必死になって勉強する。授業の間だけ。そんなものは身に付かない。だからこそ、やはり自分で努力しなければならないのだ。
 そこで、奥多摩合宿。これはどうだ。けっして学習をしなければならないわけではない(その代わり、もしそんなことをすれば肩身が狭く針の筵に座っているような気分になるため僕のような小心者を促す効果がある)。けれども、ここには本がいっぱいに詰まった本棚がない(2つしかないのだ。これはかなり寂しい)。布団もない。暑い。クーラーがない。インターネットも通っていない。
 暑さから逃れえるものは、学習しか残されていない。そうなると自主的に机に向かうようになる。もっとも、中にはそうでない人もいるにはいるが、それだってなにもしないわけではない。タイミングが合わないだけで、いざ机に向かうと意外なことに集中力が持続する。退屈になれば、本を読んでもいい。散歩をして気分転換をしても良い。もっとも、あまりの酷暑に逃れうる術は学習しかないと、すぐに思い知ることになるが。
 自分で一から十まで考える必要性はどこにもない。せっかく先人たちが知識を残していってくれているのだから。ある学者が言っているように、先人たちの積み上げてきたものに立っていけばよい。「する」か「しない」か、それさえ自分で判断していけばよい。それが僕にとっての「善」になる(自分では全く実行できていないというのが悩みの種である)。

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