読書記録 陰翳礼讃①
谷崎潤一郎の小説、陰翳礼讃。これはこの前の解剖実習の時に懐へ忍ばせて持って行ったものだ。行きのバスの中で読み、それに加えて帰りのバスの中でも目を向けたものである。
陰翳礼讃の最後を飾るこの文章に影響され、僕はときたま明かりを消す。本を読む手を少し休め、かといって他にすることを考えつかない場合は、瞼を瞑るか、部屋を暗くして目を休ませる。
この方法は、今のところ上手くいっている。現在の日本の街では、街灯があちこちに灯っている。だから、外に出ても明るく照らし出されている道路が見えるだけで、暗闇を見ることはできない。だからといってカーテンを閉めて、電灯やその他光を発するものすべてを覆い隠すのも考え物だ。僕は暗闇を見たいのではない。暗闇の中仄かに浮かび上がるものを見たいのだ。
よって、奥多摩はまさに新天地とも呼べるところであった。夜になるときちんと暗くなる。余計な明かりは一切なく、しかしながら月明かりは空に浮かぶ。僕の理想に程よく近い場所であったのだ。
本当の暗闇であろうとも、しばらく経てば目が慣れる。しかしながら、やはりそれでは物足りない。文中にあるように、「灯に照らされた闇」というものこそが、よいのだ。月明かりは、暗闇に目を慣らしてから見るとあまりにも眩しい。純白の微粒子につつまれているように見える月の下を、ぐるりと見渡すのが好きだった。
できれば、同じく文中の「眼に見える闇」というものも見てみたい。しかし、これの発表された1934年、いまから90年前の著者をして「現代の人は久しく電燈の明りに馴れて、こう云う闇のあったことを忘れているのである」と言わしめているのだ。90年前ですらそんな状況であったのに、現在に至っては一体どうか。少なくともその時代よりも明りは灯り、奥多摩の古民家といえども天井にはいくつか電燈がついている。懐中電燈の明かりや、調理場・玄関にだって危険だから明かりはついているのだ。もはや「眼に見える闇」というものを見ることは能わないのではないか(とはいえ、著者の言う「現代の人」とは当然都会に住み本を読むことのできるものを指すのだろうから、当時農村に住んでいた人などはこれから除外されるのであろう。よって、この屋内の「眼に見える闇」というものは未だに見ることができるのかもしれないと、僕をひきつけてやまない)。
問題はまだある。著者が文中で書いているように、トイレや風呂などの床や壁は、真っ白いタイルではなく木材のほうがいい。もちろん、タイルのほうが実用性はあるのだし、とくに風呂などは掃除が楽な方を選ぼうとするが、それでもやはり、明るい照明のもと真っ白い床、真っ白い壁の中真っ白な浴槽へと浸かるのは心を和ませるどころか、張り詰めた緊迫感を与えてしまう。白いものを用いるのはこの2か所だけではない。壁紙などだって白いものが多く、掛布団や布団に駆けるシーツなどだって、白い。
それはそれでいいものなのだ。白い場所というのは一目でわかる。暗い場所であるならば、白は浮き立って非常に荘厳にも思われる(昨年度に父方の祖父母は引っ越してしまったが、引っ越す前に住んでいた場所はとてもよかった。10メートル以内に街灯と呼べるものも民家もなく、よって月光の燦燦と降り注ぐ場所から少し離れると、そこは暗闇の中、ぼうっと白く浮かび上がる布団が見る者の心を落ち着けてくれた)。しかしながら、現在では暗い場所などほとんどない。少しでも明かりが入ってしまうのであれば、壁一面がほの明るく浮かび上がって見せる。そういったものは、僕の趣向に合わない。白というものは、どこか一か所のみに使うような代物であって、一面を白く塗るなどというのは遠目にはよいかもしれないがいざその近くに行くとなると今にも押しつぶされるような感じで辟易してしまう。だから、やはり基調となるのは黒であるべきだ。いや、そうではない。基調となる色が存在してはいけない。それは、闇であるべきなのだ。こちらを押しつぶそうとしてくる「白」ではなく優しくこちらを包み込んでくれるような「闇」、それこそが日本人好みのものであったのだろう。実際、僕もそちらのほうを好む。現代に生きる人として、確かに闇は怖いけれども、それでもそちらのほうが良いと感じてしまうのはなぜなのだろうか。