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(小説)白い世界を見おろす深海魚 2章(雨上がり)

・序章
・1章

2

 翌朝、クライアントからの希望で朝の八時半にその会社が入っているビルへ行くことになっていた。この約束がなければ、あと30分も多く眠っていられたのに。
眠い目をこすりながら駅のトイレで顔を洗い、オフィスへ向かった。空元気を出して、朝のあいさつをする。

 広報担当者は白髪まじりの中年男性。
 分厚い唇を真横に引き締め、いつも不機嫌そうな顔をしている。
 それでも、たまに機嫌のいいときもある。毛虫のような眉を『ハ』の字に曲げて、つばを飛ばしながら二時間も家族旅行の話をされたことがあった。
 興味のない家族の思い出話を聞くのは拷問に近い。
 それでも、怒っているより何倍もマシだった。

 今日の機嫌はどうだろう。

「昨夜の雨も上がって、今朝はいい天気ですね」
ぼくは当たり障りのない会話で、相手の気持ちを探った。

担当者は咳払いを一つしてから、いつもの通りブースで区切られた会議室へと案内する。テーブルを挟んで担当者と対面すると、すぐに彼は一枚の書類をテーブルの上に放り投げてきた。
 その瞬間、淡い期待が音を立てて崩れた。
 どうやら、このおっさんは「いつにも増して俺は不機嫌だぞ」とアピールしているようだ。
 書類を手に取ると、以前出した見積書だった。

 なにか間違いでもあったのだろうか。いや、そんなはずはない。
何度も見直したはずだ。

 そう確信しても、体が嫌な空気を感じ取って鼓動が早くなった。
「この以前出してもらったパンフレットの見積書なんだけど……」
 担当者はひどく低い声でしゃべり始めた。
「なんで、デザイン料金が1ページ2万円もするんだ?」
 全身の毛穴から汗が吹き出る。

 クレームを貰う。上司に怒鳴られる。社内での評価が、また下がる……

 何度も経験してきた嫌なイメージが浮かび上がる。

「これは以前、申し上げましたが、この号のレイアウトはとても複雑なものになっていまして、写真修正やイラスト等を含めますと……」

 何度もつっかえながらの話は、怒鳴り声で打ち消された。

「『申し上げた』って? 安田さん、こっちはまったく聞いておらんよ」

 担当者は目を閉じて、腕組みをした。こっちの意見を一切拒否する構えだ。
「『聞いてない』って……ええっ、参ったなぁ」

 打ち合わせの際に説明したはずなのに。
 どう対応していいのだろう。
 値を下げたくない。
 上司にも怒られるし、なによりも徹夜続きで体調を崩しながら記事を制作したチームに申し訳がない。

どうしていいか分からず、しばらく黙っていた。

 真剣な顔をすべきか、それとも笑って場を和ませた方がいいのか。
どうしてこのクソオヤジは、ぼくを苦しめるのだろう。

 いやな沈黙。

ブース内は、朝っぱらから重々しい雰囲気が漂っていた。
「安い方の値段に戻して、もう一度見積もり書を貰えないかな?」
目をつぶったまま、彼は言う。
「安い方のって……」
 泣きたくなった。でも、どうしようもない。
 相手は“顧客”で自分は弱い立場にいる。
 ここは意見を飲むことしか解決策が見出せないような気がした。

 それと……
 一刻も早くこの場を逃げ出したい気持ちが強くなっていた。
「はい、わかりました」
 あんたの勝手な意見じゃないか。
 ぼくは、この言葉を胸の中で押しつぶした。

 戦闘放棄。

 もう会社に戻って上司から怒られるしかない。放り出された見積書を受け取り「作り直しをさせていただきます」と頭を下げる。
 この一件を終えた後、昨夜に作った見積書をファイルから出した。
彼はこれを一瞥するなり「では、この見積書も広報課で目を通しておきます」と席を立つ。これもケチをつけられるのかな?
 胃を雑巾みたいにキツくしぼられるような痛みがした。

「申し訳ございませんでした。こちらの見積書も、ご検討をよろしくお願いします」

 なんて頭を下げてみたが、顔を上げたときには取引先のおっさんは目の前にはいなかった。
 別れのあいさつやおじぎといった社交辞令は一切ない。
 彼にとって、ぼくはそれすらも取るに値しない人物なのだろう。


 ビルを出た後、ぼくは周辺をあてもなく歩き回った。
 上司に怒鳴られるまで、少しの猶予がほしかった。まだ、あの緊迫したオフィスには戻りたくない。


 雨上がりの朝の街。
 空気は、まだ透き通っていた。


 大通りは足を速めているビジネスマンで埋まっている。

 静かな場所へ行きたかった。

 本能的に大通りから少し離れた位置にある小道へ入ると民家が寄り添うように連なっている土地へ着いた。
 すぐそばがビジネス街とは思えないほど閑静としている。玄関先に置かれているユズリの鉢植え。葉には前日に溜った雨水が日光を弾いていた。目に突き刺さるほどのまぶしさ。

 塀の上には二匹の猫が重なりあって眠っていた。
 近づいても、こちらを意識することもなく目を閉じている。時折、しっぽを揺らす。

 その隣の壁の汚れた花屋では、おばちゃんが店のシャッターを開けていた。駅前にあるようなオシャレな花はない。仏花や野菜の苗が店頭に並んでいて、奥にはガラスケースに入れられた黄色い実を付けた枝が入っていた。

 自動販売機で缶コーヒーを買って、花屋の近くにあるお寺へ入った。

 黒ずんでほとんど読めなくなっている木製の表札、石畳。人影はなかった。雨に濡れたベンチをハンカチで拭いて座る。
 スズメの鳴き声が聞こえた。頬をなでる冷風が心地よかった。

 ぼくは目を閉じて、暗闇に塩崎さんの姿を映し出した。

 彼女が仕事にかかるとき、バレッタで髪をまとめる。
 デスクトップを食い入るように見つめ、細い指でキーボードを叩いている様子を横目で何度も見たことがある。
 たまに彼女のことを考えると苦しくて、痛くなる。

 でも、ぼくは想いを伝えることはしない。
 それをするには、あまりにも自分の惨めな姿を見せてきた。

 陽が少し暖かくなってきた。微かな線香の匂いが鼻をなぞる。
陽だまりの中、 東京の上空を泳いでいるような夢をみた。
 全てが雨によって洗いながされた青い空を。

つづく

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