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【小説】白い世界を見おろす深海魚 42章 (館内の果てない海)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。

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42

 次にミユに案内されたのは、ル・プランの事務所から三件離れたコンクリート造りの民家だった。他の建物と同様、古く黒ずんでいる。入り口の塀には枯れたアサガオの蔓が、寄り掛かるように絡んでいた。茶色い葉がカサカサと音をたてて、一枚落ちる。

 薄暗い建物内に一歩踏み出すと、湿っぽい空気が身体を包み込む。呼吸をすると肺の中にまでカビが生えてきそうだった。

 入りたくないな……。

脚を動かすことに躊躇しているぼくを気にせずに、ミユは廊下を進み、突き当たりにあるドアを開けた。

「こっち」と、玄関で立ち止まっているぼくに向かって手招きをする。

真っ暗で何も見えなかった。

「なんの部屋?」

 暗闇に手を伸ばす。やけに冷たい空気が指先をなでた。なにかの薬品だろうか。化学物質特有の鼻腔を突き刺すようなニオイが漂っていた。

 ミユが壁に取り付けられたスイッチを押すと、蛍光灯が音を立てて点滅する。

 ぼくは呼吸を止めた。

 急に水の中に放り込まれ、全身に水圧がかかる錯覚をおぼえたから。でも、この部屋には水なんて一滴もなかった。

 壁には青と黒をベースに赤、緑、黄色、灰色のペンキが塗られているだけだ。いや、塗られていたというよりも……描き殴られていたという表現の方が適切かもしれない。たっぷりと付けられたさまざまな塗料は、なんらかの強い感情が込められて付着している。

 憤怒や悲哀とか……。あらゆるものが刷毛の痕跡、一つひとつに入り込んでいる。それでも、飛び交う感情に騒がしさはない。何人もの村人を食い殺してきた熊の剥製のように、凶暴なエネルギーは過去のものとなっていた。今はただ、カラッポな静寂を宿している。

「海……」

 つぶやくと、嬉しそうなミユの声が聞こえた。いつもの細々とした声とは明らかに違う。

「わかる? そうよ、ここは海の底」

 上を見上げると様々な色の集合体となった白が滲んでいた。遥か上空にある太陽だろうか。

「これは君が描いたの?」

 ミユは微笑んでいる。足元に粘着性のある砂が広がっているような気がして、ぐらつく。

「ここが、わたしのお店」
 周囲を見回しながら手で壁をなぞると、コンクリートに囲まれた十畳ほどの空間であることに気づく。床に敷いてあるのはカーペットで、砂ではなかった。

「店……なんの店?」

 こんなところで開く店を想像できなかった。ブティック、カフェ、エステ……。どれを選んでも、圧倒的な壁の画力(これが画と呼べるかどうか分からないけど)に飲み込まれてしまう。

「空間よ。わたしは、この空間を人に貸すの」

 両手を広げたミユは海中に漂うクラゲと重なる。透明で青白く発光するクラゲ。

 目の前にいる女性は何者なんだろう。まったく掴めない。映写機に写し出されたモノのように、どこか現実でないものに感じる。

 部屋に入ったばかりのときは、水中にいる錯覚によって窒息してしまいそうだった。でも、今は心地良ささえ感じる。温水プールの中にいるように身体が揺らぐ。

 そんな自分に恐怖感を抱いた。ここに、いつまでも居てはいけない。脳の奥から、そのような警告が聞こえてくる。このまま居着いてしまうと深海に溶けて、自分もこの“色”の一部になってしまうような気がした。

つづく

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リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。