【小説】白い世界を見おろす深海魚 81章 (深海での耳鳴り)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。
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あぁ、そうか。
暗い影を宿した斎藤さんを見て、ある考えが浮かぶ。
青田さんのいつもの笑顔で警戒心を解き、個室に入れてからジワジワと脅しをかけるつもりだったんだ。今回の事を機に賠償金、もしくはキャスト・レオにとって格段に有利な契約をせびるつもりなのだろう。なんせ、ヤクザまがいの人間がいる会社だ。契約を解消させるだけでは、済まされないはずだ。
隣にいる川田部長に対して、申し訳ない気持ちが強くなる。後悔だけはしまいとしていたが、それすらも叶わなくなってきた。
彼は青田さんの隣に座り、手を組んだ。
「マーケティング・キャストを担当している斎藤と申します」
顎をひいて、威嚇するような目つきで川田部長に目を向ける。
「安田の直属の責任者となります川田です。今回の件に関しましては、大変失礼しました」
斎藤さんの強気な態度にも、川田部長は逃げの言葉を使わなかった。自分が“安田”の“直属”の“責任者”であることをハッキリと示した。
「この原稿が発表されて一週間になりますが幸いなことに、いまだ当社の損害になるような事件は報告されていません。しかし今後、このような危険性は充分考えられます」
「はい……たしかに」
川田部長はうなずいた。
「我々キャスト・レオのメンバーは、この問題を深刻に受け止めています。まず御社が今回の事件をどのように考え、どのような対処方法を採るつもりか聞かせていただけますか? これは明白な……」
「斎藤さん」
彼がしゃべり終えるのを待たずに、青田さんが口をはさむ。
「私は、責任も賠償も求めるつもりはございません」
彼女は笑顔を保ったままだった。
「どういうことですか? そのような結論に至った経緯を教えてください」
斎藤さんも左の頬を引きつらせながらではあるが、対向するように青田さんに笑顔を向ける。
対立している。
瞬間的に二人の力関係を頭のなかで浮かべる。
斎藤さんはキャスト・レオの優秀なメンバーであるが、社員ではない。肩書きが付いている社員である青田さんよりも権限は低いのかもしれない。
なぜ彼女が僕たちをかばってくれているのか分からなかった。安心感よりも懸念が胸に広がる。一方で、無難に済んでほしいと未だに頭の片隅で望んでいる自分に気づき、心のなかで苦笑した。
キャスト・レオ同士の不協和音が室内の空気を揺らす。
息苦しい。
ミユの、深海を模倣した部屋に初めて入った時に感じたような息苦しさではない。溶かした大量の鉛を浴びたような、救いようのない重圧が身体にかかる。
事は次第に複雑になり、誰もが感情を害する状況に陥っていくのが分かった。緊張のためか鼓膜の奥が揺らぎ、頭蓋に共鳴する。一瞬、意識が遠のく。
目頭を押さえて、青田さんと斎藤さんの会話に意識を集中させる。でも、区民プールに響くFMラジオのように、水のなかに入っている自分の耳には届かない。なにかを話している青田さんと目が合う。彼女の視線は斎藤さんに向けていたが、異変に気がついたのだろう。ぼくの顔を覗き込んできた。
「安田さん?」と眉を顰めた顔を近づけてくる。
ハイ。
返事をしたつもりだった。でも実際にできたかどうかは分からない。突然、視界が真っ暗になり、張り詰めていたものが一気に身体から抜けていくのを感じた。
つづく
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