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【小説】白い世界を見おろす深海魚 87章(白い世界)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。
安田は自分が置かれた状況のプレッシャーから逃れるため、退職前に塩崎がデスクに残していった抗うつ剤を服用して、キャスト・レオへ謝罪に向かった。
それが起因したのか、安田はキャスト・レオの応接室で気を失い病院へ搬送される。診察を終えると待合室で青田が待っていた。
青田は中傷記事の責任を問わず、むしろその行動をとった安田を評価する。そして、彼女の想いを伝える。
本当に憎むべき人間・組織は誰だったのか。曖昧な気持ちを抱いたまま、安田は病院をあとにした。
塩崎が東京を去る日が来た。安田は彼女を見送ろうとするが、列車に乗ることを躊躇するような素振りをみせて困惑させる。


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87

 霜で覆われた枝のように細くなった指から、タバコが落ちる。
 足下に転がったそれは役目を終えたことを気づかずに、覚束ない煙を出し続けていた。
 両手で顔を覆いながら、肩を上下させて息つく。

「塩崎さん……」
 名前を呼んでみたが、どうしたらいいか分からない。

 列車が到着するアナウンスがホームから聞こえる。でも動こうとはしない。

「塩崎さん……行かないでよ」
 気づけば、そんな言葉を漏らしていた。

「行かなくてもいいよ。もう一度、ここでがんばろうよ。俺も手伝うから、一緒にいよう」

 彼女は大きく目を開いて、見上げる。涙で濡れた頬に長い髪がくっついて、さらに弱々しい印象を与える。いつも外見を綺麗に見せている彼女とは別の顔。

「ありがとう」

 両腕をぼくの首に回し、抱きついてきた。細い腕からは考えられないほどの強い力と、同時に押し寄せてくる甘い匂いが胸を圧迫させた。

「ありがとう。でも行くね。ここにいると、わたし、また負けちゃいそうだから……」

 ブーツ底が地面に擦れる音と共に、彼女は勢いを込めて唇を近づけた。口の端に歯がぶつかる。動揺しているぼくに構わず、さらに顔を押し付けて頬の内側の肉に噛み付いてくる。やり場のない悲しみを含んだ暴力的な口づけ。それは涙とタバコの味がして、塩崎さんそのものを受け止めているような感覚だった。首から離れた小さな手が、今度はぼくの両頬をしっかりと支えた。白く、細い喉の奥から時折「ん……」と高い音が響いた。何かに復讐しているかのように、引き寄せる力はさらに強くなる。

 ぼくは通行人や喫茶店の窓辺にいる人たちを気にしていた。時間が長い。彼女の背中を軽く叩いて、落ち着きなよと合図をする。

 濡れた唇が離れた。暖かく湿っぽい吐息が顔をなでる。ぼくはうなずいた。頬を押さえつけていた彼女の両手が離れた。その瞬間に〝別れ〟という実感が胸に突き刺さってきた。顔を覆っていた温もりが、乾燥した風に晒される。

 塩崎さんはこちらを向いたまま、一歩後退をした。ボストンバッグを持つ。ピンクの口紅が顎の辺りに少しだけくっ付いていた。
 細めた眼からは、まだ涙が溢れていた。それをハンカチで拭う。

「じゃあ、行くね」と鼻をすすりながら、呟いた。
 ぼくはうなずいた。

 彼女は「バイバイ」と手を振り、背を向けた。改札口に向かって歩き出す。冷えたアスファルトを撫でるように風が吹き、一人になった身体を包み込む。

「塩崎さんのおかげなんだ」

 ぼくは彼女の背中に向けて、衝動的に叫んだ。ずっと胸の片隅に溜まっていたものを吐き出す。
「だからさ。なんて言うか、塩崎さんがいたから俺は……」
 言葉を続けようとした。でも、声が出ない。迂闊に出す言葉じゃないと気がついたから。今まで必死で戦ってきた塩崎さんにかける言葉ではない。口をつぐみ、息を止めた。
 代わりに、もっと優しくて前に歩きたくなるような励ましの言葉を探す。でも、見つからない。キャスト・レオのセミナーで立て続けに吐き出されるようなポジティブな言葉は、ここでは意味を持たない。

 情けなかった。
 下唇を強く噛み、不甲斐なさを堪える。

いつもそうだ。ぼくは大事なときに、大事な人に何も言えない。あのときの原稿だってそうだ。結局は本当に伝えたいことは、何ひとつ書けなかった。

 塩崎さんは振り返った。言葉が出ないぼくを見つめながら、首をひねる。

「ごめん……」
 目に力を入れた。そうしないと感情が溢れそうだから。

 彼女は、小さな唇を微かに動かすと眼を閉じて微笑む。ボストンバッグを持っていない方の手を自分の胸に当てて、ぎゅっと握った。そして、小さくうなずく。

その仕草の意味することが分からなかった。

 彼女はゆっくりと眼を開き、ホームにつながる階段を見上げると、立ち尽くんでいるぼくに背を向けて改札を通り抜けた。もう振り返らない。そのままプラットホームへと続く階段を上っていった。先ほどよりも足取りが力強くなっているように見えた。

 列車が到着することを告げるアナウンスが、空に響く。ぼくは線路と道路を隔てる金網に寄り掛かった。
車輪の動く音が耳の奥に突き刺さる。寄り掛かっていた金網から背を離し、自分の脚で立つ。少し、身体が重く感じた。

 やらなければいけない山積みの仕事を思い出す。会社に戻らなきゃ……と思いながらも、その場から動けないでいた。

 頬を触りながら、塩崎さんが残してくれた温もりを思い出す。
 いずれは、この温もりも忘れてしまうのだろう。それなら早い方がいい。

 ぼくは、頭上に浮かぶ灰色の雲の群れを見上げた。


#創作大賞2023

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アメミヤ
リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。

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