子どもに児童書を読ませる必要って特にないと思う
読書感想文。
読書カード。
夏休みの推薦図書。
おすすめの本を友達に教えるカード。
本本本。
本を読めと大人は子供たちに言う。
私はそれに従い、本を浴びるように読んできた。
学童期にはゾロリから始まり長靴下のピッピ、大どろぼうホッツェンプロッツ、モモ、ナルニア国物語、ハリーポッター、マーリンなど、他にも諸々。
複数巻あるものは全巻読んでいる。
海外の児童書は翻訳されるだけあって面白い物が多い。
日本の児童書は…ギブアップしたものも多数。
思春期には京極夏彦の単行本(厚みがすごい。そして面白い。ご存知ない方はぐぐってみてね)を抵抗なく何冊も読んできた。
その私が出した結論は、
「小説本は単なる娯楽の一種なので、読みたければ止めないが読まなくても全く問題ない」
である。
書いてて思ったけど、当たり前か。
いちいち書くまでもないかも。
でも書き始めちゃったから続ける。
娘が成長し、学校からの「本圧」をやたらと感じるようになった。
本を◯冊読みましょう。
図書室で借りた数が多い人は云々。
朝読書の時間を設けます。
今週は読書週間です。
これがまあ、実にどうでもいいことだと思うのだ。
図鑑や地図帳、新書、美術書、楽典、哲学書、身体操作に関する本などは学びになると思うので大いに読んだらいい。
しかし、児童書は別に読んでも読まなくても良い。
批判を承知で書くが、児童書の7割ぐらいは全然面白くない。
ゾロリやハリーポッターはやはりとても面白いが、稀有な例だと思う。
昔ながらの表紙のものもラノベ風な現代的なものも、どちらも内容の薄い本の割合が非常に多いのだ。
大人が子供をみくびって書いている、子供騙しにすらならない内容。
そんなものを読むのは時間の無駄でしかない。
そんなん読むぐらいなら漫画やアニメで物語と同時に色々な絵や音に触れた方が有意義だと思うレベルである。
これは子供の頃から思っていたことだが、子供を持ってからまた本に触れて改めて思った。
昔から何も変わっていないのだ。
飲食店の中にまずい店があるように、
ゲームの中にクソゲーがあるように、
当然本の中にもクソな本がある。
絵本も児童書も例外ではない。
むしろ、子供向けの本は読者からのフィードバックが拙いせいで改善もされずに大人たちの自己満足に利用されている。
面白い本の割合が少ないのだから、読書がつまらないのは当然である。
それなのに、大人は子供に本を読ませようとする。
大人として何か勉強させた気になるし、
子供の読解力やら想像力やらが鍛えられるような気がするからである。
教育の場では、読書という行為がやたらと神聖視されている。
それも読書といえばなぜか物語を読むことになっている。
そして、どんなに面白くなくてもなぜか最後まで読み切ることが良いことだとされている。
私に言わせれば、小説だろうと漫画だろうとアニメだろうと全部同じ娯楽だ。
面白くないものは面白くないので、数ページ読んでみて無理だったら読む必要はない。
読書しないと読解力がどうのこうのなどという大人がいるが、見当違いである。
中学以降の国語の文章題で求められるのは「作者の気持ち」や「想像力」ではなく「答えが書いてある箇所を文章中から探し出す能力」である。
それは小説の読書から得られるものではなく、問題を繰り返し解いてパターンを見つけて得るものだ。
算数と別に変わらない。
勝手に想像を膨らませたところでそれは個人の妄想なので、答えとしては不適当である。
語彙力については例文の載った参考書を使用すれば充分網羅できるはずだ。
低学年のうちから新書を読むのは良いトレーニングになると思うが、それを勧める小学校教師はあまりいない。
というわけで親としては時間の無駄なので、いちいち小説の読書感想文やら読書目標やらを勧めないでほしいのである。
文章からの想像力、イマジネーションなどというのは結構だが子供達の時間は有限なのだ。
活字の中の主人公が冒険するのを読む前に、子供自身が実際に冒険した方がずっといい。
かつて、「小説を読むと馬鹿になるからやめろ」と言われた時代があったらしい。
私はこれには結構同意している。
小説は何も崇高なものではなく、遊びの一種なのだ。
読んだところで賢くもないし偉くもない。
大多数の本は
「あー、面白かった」「つまんなかった」
ただ、それだけの存在である。
だから、小学校の図書室で児童書が圧倒的な割合を占めている現実について非常に疑問を感じている。
現状は大人が児童書の読書を課すことで、子どもに暇つぶしをさせているだけである。
どうせ読書をさせるのなら有意義な本は他にいくらでもあるのに。
ただ量を読ませれば良い
本は無条件で良いものだ
読んだ子は偉くて賢い
というのは思考停止すぎないか、と思えてならない。
「読書週間」や「読書感想文」のために読まされる本が物語ばかりである必要があるのか、今一度考えるべきだ。
現代において感動や教訓はあらゆる媒体から得ることができる。
活字は図や音に頼れない分、ある意味劣った前時代的なメディアとも言える。
やたらと神聖視することなく、趣味の一つとしてフラットな姿勢で接するのがよいと思う。
読まなくても何も問題など起きない。
新たな体験ができるかもしれない時間が発生するだけなのだから。
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