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book log - 「光の領分」津島佑子著
8月の読書1冊目。10冊チャレンジついにスタートです。
(表紙が違いますが、たぶん版の違い)
出会いはセンター入試の過去問
この本は、今特に話題になっているわけでもないので、作品のチョイスとしてはあまりにも唐突だと思います。
「光の領分」とわたしの出会いは、大学受験の頃、現代文の問題として出題されて読んだのがきっかけ。
作中二話の「水辺」から一部が抜粋されて出題されました。
主人公が娘と引っ越してきた部屋の屋上に、ある日まるで海のように水が張り、それを娘が喜ぶシーン。
それが余りにも不思議な状態で、かつその描写から思い描いた光景に胸が高鳴りました。
おそらくA4一ページほどの抜粋だったと思いますが、わたしはその時思い浮かべた光景がずっと忘れられずに何年も過ごしてきたのです。
そのあともずっと読みたいなと頭の隅で思いながら、今になって「小説 屋上 水が張る」で検索したところこの本に出会ったというわけです。
このとき結果的に2001年のセンター入試の過去問だったことを知りました。
あらすじ
主人公である「私」は、もうすぐ3歳になる娘とともに、古びたビルの最上階である4階の部屋へ引っ越してきた。他にはカメラ屋と貸事務所、そして空き部屋があるそのビルの名は「第三フジノビル」。「私」の姓、正確には別居している夫の姓と同じだった。
本作は、そのビルの一室で始まった、「私」と娘の生活、そして夫・藤野との“具体的な理由のない”離婚までの日々を、取り囲む人々や暮らしの変化とともに描いた作品です。
主人公わけわからん
本作を通しての大きな感想は、主人公の心理よくわからん……です。
始終共感できないまま、物語は終わってしまいました。
「私」は、劇場をつくるという夢を追いかける、正直うだつの上がらない夫・藤野と彼が学生のうちに半ばいいなりな形で同棲をはじめ、ぬるぬると結婚し、ぬるぬると子供を設けました。おそらく恋は盲目的な魔法に掛かっていたのかもしれないから、現実でもそういうことはままあるのではないかなという気もする……。
しかし、彼女は実のところプライドが高く、感情的で、性欲に対してもやや執着が強い女性でもあります。不安だと泣いて気弱なところがあるのかと思えば、自己中心的で、他人のことを見下したり、すぐに大声をあげて戦いを挑む。そういう二面性のある人です。
たとえば娘の3歳の誕生日を祝う会をしようというときも、夫と別れたことで失った人脈から差し引いた“呼べる”相手を3人選び電話をかけて誘います。母親と3人で過ごすのはいやだと言って彼女たちに声をかけるのに、断られてしまうと、地の果てまでショックを受け、失望して、小さな子供を置いてお酒を飲みにでかけてしまうのです。
そこで出会う女性にも、自分で部屋に来て飲み直そうと誘うのに、嫌なところを見られた途端に大声で罵る場面があり、正直「なんだこいつ?」という印象でした。
状況が状況だけに、情緒不安定だったのかもしれません。
だから、感情が常にフラフラしていて、あまりに大きく振れ、そしてそれを躊躇なく表に出してしまうので、永遠に共感できないまま物語が進んでいきました。
差別用語やちょっとした幼児虐待が普通にある昭和54年
「知恵遅れ」という言葉が文中に出てきて、ひっくり返りました。
驚いて奥付を確認すると、昭和59年3月15日第1刷発行の文字が。
調べると、1979年(昭和54年)に発表された作品、つまり40年ほど前の作品になります。そりゃ今と違って当たり前です。
この時代はどんな時代だったのか。
思えばこの「私」は、明確に年号と年齢が書いていないので察することしかできないのですが、おそらく令和2年では60代後半になる世代のはずです。
思えば携帯電話も一切出てこない。
藤野が「私」の職場に電話をかけてくるシーンがあり、それは今の感覚で捉えると非常識に思えます。
けれど、確かにわたしの幼い頃も携帯は普及してなかったから、何かがあるとお母さんがお父さんの会社に電話をかけていました。正直大したことない用事、たとえば今ならLINEで済ますような内容もあったような気がします。
個人的な連絡は個人の携帯にかけるという習慣になったのは90年代の終わりなのではないでしょうか。父の職業柄デバイス関連には先進的な我が家でも携帯関連が導入されたのは大体その辺りだったと思います。
それより20年近く前の話。
今読めば違和感を覚えるのは当たり前ですよね。
そして、今よりもずっと規制や世間からの目がゆるかったこの時代。
もう一つ時代的な差を感じた描写がありました。
それは、二人で「ブーローニュの森」と呼んでいる日本庭園にでかけた夜のこと。
「私」はそこにあった三本の欅に見惚れ、早く行こうと急かす娘に、一人で行けと言い放ち、本当に行ってしまっても見失うほどの時間放置したのです。
大人がまだ2歳の娘にそんなことを言う感覚すらも、現代にはあまりないかもしれませんが、思わず言ってしまったとしても、すぐ追いかけるのではないでしょうか。
探す途中にベンチに腰掛ける描写やだいぶ距離のある場所で娘を見つけたことなど、わたしは怖いなとすら思いました。
誘拐されたらどうするの……? と。
でもおそらくそういう時代だったのでしょう。
この「私」が特別非常識な人だったのではなく、差別意識が強かったり、虐待をしている節があったわけでもなく、純粋に今よりずっと何事も許されていた時代なのだと思います。
シングルマザーと娘の自由で孤独な暮らし
解説によると、著者は母子家庭を描くことが多い作家さんとのこと。
そう思うとこの不安定さは、母子家庭のそれらしいなと感じられます。
といっても、わたしの周りに母子家庭の母や子が何人もいるわけではないので、限られた例からみたそれになるけれど、やっぱり母子家庭はどことなく精神的に不安定なことが多いなと思います。
それは母子家庭というよりは、片親の家庭ということになるのかもしれないけど。
親の方も子の方もなんとなく浮き沈みがある友人が多いです。当人はそうでなくても、その母親がとか、その子どもがということもある。
片親の家庭をいいとか悪いとか言いたいわけではなく、やはり多くの家庭が二人で行っていて、それがデフォルトとして設定された社会で、それを一人でするというのは、苦労もさることながら、何より不安が常に付き纏うのが容易に想像できるからです。
今ですら充分にケアがされているとは言い難い社会で、40年ほど前のシングルマザーやその娘がどれほどの不安の中にいたか計り知れません。
そういう点で、本作の母娘は始終不安定で、浮き沈みも激しく、娘の夜泣きや癇癪がそういういった不安(おそらく本人は理解できていない)からくるものとして描かれています。
本当に子供はナイーブで、心も体も調子がジェットコースターのように変動する生き物なんだということがリアルに伝わり、まさしく母子家庭の娘として育ったご自分の体験を反映しているんだろうなぁ、と思いました。
「夢」の描写が深層心理を伝えている?
本作は、特に物語が進むに連れて、夢についてのシーンが多く描かれていきます。
眠っているときに見る方の夢です。
それはとても抽象的で、ぼんやりとしていて、大体が性的な何かを含んでいる夢です。
おそらくそこに「私」の深層心理が描かれているのだと思うのですが、夢というだけあって、難解で、起床後の本人の解説にもあまりピンとくることがありませんでした。え? これってそういう意味なの? というような。描写から想像する深層心理と主人公本人の見解が違って、困惑するという……。
でも逆にいうとそれでこそ夢の描写という気がします。
夢って実際に支離滅裂で、いつの間にかシーンが変わったり、辻褄が合わないことも、言動の意味がわからないこともザラです。
もしかして夢占いで調べたらもっと解釈が深まったりするのでしょうか?
独特の気持ち悪さや仄暗さなど、描写がとても心に残りました。なんとなく嫌、みたいな。
最後に感想
読み終えて、これを書いてみたら何か見えることがあるかなと思いましたが、やはり「なんだったんだこれは?」みたいな印象だけが残りました。
気づいた点や思ったことは詰め込んだのですが、掴みどころなく終わったなという読了感。
もしかしたら読む人が読めば共感するのかもしれません。
こんな感想ですみません(笑)
学んだ言葉
【読み方】
罅(ひび)
焔(ほのお・えん)
【意味】
方途(ほうと)…進むべき道。しかた。方法。
ゆきやなぎ…春に小さくて白い花を咲かせる草
草叢(そうそう)…草むらのこと
衝撃の年譜
おまけ的エピソードですが、最後についている著者の津島佑子さんの半生が書かれた年譜を見てびっくり。津島佑子さんは、あの太宰治の娘さんらしいです。
……え?!そうなの!?
今、受けた衝撃です。(常識だったらスミマセン)
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