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光浦靖子さんのカナダ行きと、日本のお笑いに思うこと

「ようやくカナダに行きまして」のノビノビ感よ

光浦靖子さんのご著書「ようやくカナダに行きまして」を読了。感想は「カナダの良いところ、気になるところを具体的に表現されていてわかりやすい。人生の経験も積み上がってきて、いろいろなザラザラした気持ちにも共感。計画性があるようなないような、行き当たりばったり行動も楽しい!」

日本での生活に疲弊されていた光浦さんは、コロナ禍、検査だなんだと苦労がありつつもなんとかカナダへたどり着く。そして英語や人間関係で七転八倒、楽しさも喜びもある生活を、精細に生き生きと書かれている。

「思い」や「考え」が「文章」と一体化しており、今現実で起きているかのようなゾクゾク感がある。ひとり外国で生活することは、きれいごとでは済まないこともよくわかる。そして、友人たちともたらす、クスリと笑える「笑い」が文章にちりばめられている。

お笑いタレントである光浦さんは、本のなかでご自身のお笑いについてこう振り返る。

バンクーバーに来て、いろんな国の人と接するようになって思うようになりました。笑いのハードルは低い方が幸せなんじゃないか?と。お笑いの世界で長年働き、お笑いを見る目だけはどんどん肥えて「あれは面白い」「これは面白くない」 「このパターンね」「はいはい、〇〇の変化系ね」なんて批評家みたいになっていって、じゃあ自分は自分のお眼鏡に叶うような崇高な笑いをしているんですか?と自問したら、もう何もボケられなくなってしまって…で、現在の私となります。

あぁ、わかるなぁ〜。常に何かにカテゴライズされていて、息苦しい感じ。いつも結果を出すようにせかされていて、出来なかったら、申し訳ない感じ。で、自然と自分もそうしちゃってる感じ。

表紙の光浦さんのお顔を見ると、芝生の上でなんだかとてものびやかに生活されているよう。彼女のYouTubeチャンネルも拝見したが、手作りブローチを売る回など、とっても英語が上達されていた。そしてカナダ人は、ほめ方がオリジナル。さらに内容が成熟していて、具体的で上手。こういうところは、見習いたい。

彼女は、日本で本当に疲れていたんだ。ご著書の中で「SNSを見て、自分はみんなの感情のゴミ箱だったんだってことに気づいた」というようなことも書かれている。

世の中には、自分では昇華できないネガティブ感情の捨て場を、さがしている人がいる。SNSでターゲットを見つけたら、安全な場所から、あたかも自分の問題とは切り離したようにやり込める。

今やカナダに住んで、ブローチ作りや、料理も英語も勉強されて、生き生きと輝いている光浦さん。本当によかった。

お笑い芸人として日本で活躍するには

日本では、お笑い芸人として第一線で活躍することは、女性だとまだむずかしいのかなと思ってしまう。日本テレビの「THE W」を見ると、特にそう思う。「制作者のひとりは女性です」という記事、「マゼンダ色の応援Tシャツ」、「チョウチョがともる得点版」などの演出を見ると、さらに強くそう思う。女性ってこうだよね感が強く、お笑いでトップを目指そうとするひとたちの、分母の枠をせばめてしまっている。

やっぱりお笑いは、男向きなのかな。M-1グランプリのコンビ宣材画像で、「上半身裸」を見たとき、そう思った。箱根駅伝のように。甲子園のように。男の汗と匂いと青春と情熱と夢がそれらには、ぎゅっと詰まっている。

したたかな女性へのいじり、マウント取りがちな女性へのいじり、結婚したいことへのあこがれ笑い取り、イケメン男性にすり寄ることでの笑い取り、…そういう女性特有の笑いが、まだある。そうでないお笑い感を持つひとたちも、もちろんいるが。

ただの人間としての純粋な笑いを求める人が、それを受け入れる体制の充実さが、それらを受け取る側の笑いへの寛容さとジェンダー意識の更新が、もっともっと広がって増えてほしい。誰かを貶めるような笑いとか、自虐的な笑いでもなく。マジョリティ側から。

笑いのハードルは、低いほうがいい

で、光浦さんの本の話。自分の笑いのハードルはもちろん低いほうがいいね。なるべく笑い上戸でいたい。「で、オチは?」なんて会話のなかでもちろん聞いちゃいかんと。だじゃれでも、声を出して「ふふふ」と笑いたい。

笑うことで、ふっと緊張がほぐれる。もやもやが、ぱちんと燃えて空にケムリとなって昇華され、「ま、いっか」と思える。ふわっと、笑ったらいいのだ。これで、いいのだ(バカボンのパパ風)。

また、本の続きを楽しみにしている。光浦さん、Good luck!!

崇高な笑いじゃなくてもいい。くすっと笑えれば何でもいいんですよ。Instagramにあげていらっしゃるブローチも、これからの活躍も楽しみ!!!

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