『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想まとめ
書籍のお知らせをするためのアカウントで、初めてそれ以外の記事を投稿をすることになりました、鯨井です。皆さまいかがお過ごしでしょうか。
絶賛公開中の映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』、めちゃくちゃ面白いですね。
公開日当日、「鬼太郎でホラーミステリーのバディものをするらしい。これは楽しみだ」と意気揚々と映画館へ行き、衝撃を受けて帰路につきました。以来、折に触れて考えてしまい、追加で2回観て、改めてすごい作品だなぁと感じた次第です。
私は『ゲゲゲの鬼太郎』6期と『墓場鬼太郎』を軽く復習してから行ったので、終盤は「うわ……ああ……」しか考えられなくなりましたが、『ゲゲゲの鬼太郎』を知らなくても楽しめます。いわゆるエピソード0なので、本作のホームページに書かれたあらすじと相関図を確認しておけば大丈夫です。
以下、Twitter(現X)の投稿に微修正と加筆を入れたテキストをまとめています。一部内容が重複しているところもあります。
ネタバレを含みますので、あらかじめご了承ください。
視聴1回目
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てきました。全国的に天候が荒模様で、昼過ぎに再生したアニメ『墓場鬼太郎』1話の題名が題名だったので、これは今日行くべきか、と。
結果、めちゃくちゃ面白かったです。ほんと、すごく面白かった。冒頭からずっとすごかった。最高でした。ファイナル予告で醸されていた通り、愛の物語でした。祝福が描かれていた。ただそこに至るまで、丁寧なつらさと愚かさを味わいました。PG12区分に違わず、むごかった。
横溝正史オマージュが多いと言われていますが、ミステリーよりサスペンスに近いかなと感じました。でもネタバレ厳禁です。本作品でネタバレをしてしまうと、巧妙に隠されているレールの先が見えてしまうので、もったいないです。
自分は小説を書く人間なのでストーリーと演出が気になるのですが、脚本が、もう、良かった。当たり前ですが、無駄がない。テンポがいい。台詞回しも余剰をギリギリまで削ぎ落とした感じがして、とても好きでした。
また終盤まであらゆる悪意が詰まっていたので、途中から、ここからどうするんだ……と絶望に襲われました。脚本に容赦がなく、主人公だから助かる、みたいな甘えが無くて、ハラハラしました。
昭和31年という舞台もすごくよかったです。写真や書物でしか知らない時代ですが、序盤の煙草と電車の描写で没入感が一気に増しました。当時と現代のモラルや倫理観の繋げ方も絶妙でした。表現がスタイリッシュでかっこいいです。鬼太郎の父が情緒、水木が常識のバランサーになっていると感じました。
鬼太郎の父は、柔らかくてまっすぐ。彼の平常が崩れると、見ているこちらも胸がぎゅっとなる。水木は、外見や言動の細部に物語が感じられる、かなり真っ当な大人です。ふたりとも非常に強かで、でも傷ついていて、それでも何かを信じていた。かっこよかった。
第5弾ビジュアル(下の投稿)を見たときに、ふたりが何のために戦ったのかを予想したのですが、それの何倍も力強く美しいものが描かれていました。
このビジュアル、血にまみれた大人ふたり(片方は銃を所持)と大量の地藏、そして血を被っていない子供、というのが、映画の内容を端的に表しています。
あと保阪正康さんの『戦場体験者 沈黙の記録』を読んだところだったので、いろいろと思うところ、考えるところがありました。良きタイミングでそれぞれの作品に巡り会えたと思います。
『総員玉砕せよ!』をはじめとした水木しげる先生の作品はほぼ未読のため、これから読み込んでいければと思います。子供のころ、水木しげるロードに行って怖い思いをしたので、なんとなく避けてきたんですよね。いまならいけそう。楽しみが増えた。
視聴1回目から数日後
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の余韻が消えず、いろいろ考えている。
何度再考してもやっぱり、強烈な反戦映画でもあったと私は感じる。観終わった直後から、エンタメに昇華したくない気持ちが勝っている。
反戦映画として作られたわけではないと思うけれど、構造はそれに近く見えた。戦後という時代設定とは別の部分で、擬似的な戦争と、そのむごさが描かれていたように思う。過去、搾取された人々と、血腥い出来事と、理不尽な死が、確かに在った。でもそこには、「子供」という宝物みたいな希望(未来)も在った。
反戦映画として読み解くと、最後の鬼太郎の台詞が腑に落ちる。あの村(あの時代、あの世界、そして現代)で起こったこと(あるいは起きていること)を知る者は、いまや鬼太郎と目玉おやじしかいない。大切な約束をした生き残りの水木ですら、その約束ごと忘れている。だから、知っていて、憶えているふたりは忘れない。
映画の冒頭では胡散臭い記者だと思っていた人物が、雑誌の最終号でちゃんと語り継ごうとしているところも、ぐっと来た。あの悍ましい出来事(疑似的な戦争)に対する姿勢の在り方を、戦後に生まれた鬼太郎と記者の言動を介して、観客に示した。「何も知らない人達がいる。忘れちゃいけないことがある。だから伝えていこう」という……。過大解釈かなぁ。
でも、あの映画を観た人は、きっと忘れないと思うんだ。誰かが確かにそこにいて、苦しんで、悔しくて、悲しくて、でも未来を夢見て、希望を抱いて生きていたことを。
視聴3回目
『ゲゲゲの謎』なんやかんやで3回観たけど、まだ観たい。視点を変えて観ると、その都度発見がある。演出とシナリオが実に良い。無駄がない。すごい。丁寧。面白いのと、雰囲気と音(曲と下駄の音)がいいから、何度でも劇場で観たくなる。
1回目はひたすらストーリーに引き込まれ、原作1話と墓場鬼太郎1話を知っているがゆえに「どうするんだこれ……」とサスペンションされ、とことん描かれる愛に胸を打たれ、エンドロール直前〜劇場の明かりが点くまで呆然としていた。しばらく頭がいっぱいになり、整理して言葉にするのが大変だった。
ちなみに特段意識していなかったものの、1回目は前半は水木視点で、後半は鬼太郎の父視点で観たと思う。特に鬼太郎の父は人物造形が一見わかりやすく、目的が明確(失踪した妻の捜索)かつ心優しいおおらかな性格で、心境の変化がわかりやすかったので、乗っかりやすかった。
この視点の変遷はおそらく意図的。前半は観客の代弁&状況説明として水木視点をメインにして物語に引き込み、後半は感情の高ぶり方や持って行き方がよりストレートな鬼太郎の父目線になるよう、工夫されている。
一般人でサラリーマンの水木は、常識こそ観客と近いけれど、復員兵という部分でどうしても掴みきれない部分がある。鬼太郎の父は人間ではないので人生観などわからない部分が多いが、感情は「愛する妻を探している、家族愛がある」と非常にわかりやすく、人間的。
水木が密命を打ち明けたあたりで、「そうだったのか」と観客が思う=鬼太郎の父に視点が移り始めた、気がする。
2回目は1回目の記憶を補完しつつ、水木をメインで追いかけた。画面を隅々まで眺め、要所要所の繋がりを探りながら観ていると、疑問点がいくつか出てきた。なぜここでこのシーンを入れたのか、このキャラクターはどんな役割を担っているのか、これは誰の視点か、この布石が後々どう響いていくのか。
3回目では、疑問点を解消しつつ沙代をメインで追いかけた。すると理解がさらに深まった。憐れみをかけられて怒った水木が、沙代に憐れみをかけていたこと。終盤のあれは、水木が罪を清算するために受けるべき報復であったこと。
家族・親子関係の歪さ。複雑な心情。本当にシナリオのバランスがいい。
なお、疑問点はまだ残っている。時貞は他殺か否か、障子から覗いているのは誰か(あの家は長田宅なので、彼か、彼女?)、なぜ鬼太郎の父は水木に声をかけたのか、随所随所で鬼太郎の父は何をしていたのか……。
特に一族側の描写が必要最低限なので、気になる部分がたくさんある。夜の死人はたぶんあの人かな……それとも……。
劇中の大人たちは、基本的に余裕がない。妻を探して摩耗した鬼太郎の父、未だ戦争の構図にとらわれる水木、秘密を抱え、追い込まれる一族と村。他者を許すことができない。寛容になれない。固執し、搾取し、強さと保身を求める。そのなかで、「誰からも搾取されてなるものか」と思いながらも搾取する側には回ることなく、子供という未来、希望を大切に抱えて生き抜く、鬼太郎の父たちと母。
傷を負い、恥辱に塗れ、辛酸を舐め、尊厳を失いながらも、深い愛とあるべき善を持って、他者を守るために怒る大人の姿は、やっぱりかっこいい。
全ての血を被って醜悪な澱みを断った。「子供を守れ!」「大人の恨み辛みを子供に負わせるな!」というメッセージを感じる、ご先祖様のシーンも大好きです。一緒に観た友人が「彼らへの呼び方が、同胞からご先祖様に変わった」と言っていて、「確かに!」と余計に大好きになりました。
鬼太郎の父の話
鬼太郎の父は優しくて、一途で、脆くて、柔らかい。どんな状況でも子供には穏やかに接するし、距離をとっていた水木に心を許し、どんどん友愛を寄せてしまう。元来温厚で人懐こいのが端々から伝わる。彼はきっと他者を信じているほうが楽だし、同胞を狩られたことに対して怒るだけの優しさもある(その優しさ故に擦れた)、とても心穏やかで繊細な人。彼の抱える傷は諦観に似ている。
また同時に、強い。幽霊族で、技が使えて、タフで、豪快なアクションをこなす。腕っぷしだけならまごうことなき強者。水木に憐れみをかけ、裏鬼道衆に手加減するくらい、精神的にも物理的にも優位にいる。しかし誰からも搾取しない。むしろ搾取されている。強いのに弱い。作中で強調される上下の構造とは程遠い存在。逸脱者でもある。このバランスがとてもいい。
劇中を通して、鬼太郎の父の根本的な部分は然程変化していない。争い事を嫌い、騙されやすく、達観していて、温厚で、聡い。感情の発露とそれに伴う言動もストレートでわかりやすい。そんな彼が人間を憎むことの重さも、彼を変えた鬼太郎の母の存在も、説得力がある。
彼は妻と出会い、妻を愛するうち、人間を愛する妻に感化され、人間に対する印象が和らいだ。愛する人の愛するものを愛そうとしている。本当に優しい。
しかしあの村に来た時点で、精神的には限界だったはず。人間に愛想を尽かしてもおかしくなかったし、実際諦めかけていたと思う。首を落とされそうになったとき、人間を見つめる眼差しが、彼の人間に対する印象を物語っている。でも終盤の父の選択は、大切な人への愛と、彼らが生きる未来への希望に溢れている。父は使命感ではなく、ただただ友と家族が生きる世界を守りたくて守った。
諦観の果てで初めてできた人間の友達が、泥水をすすり歯噛みしながらも魂を売り渡さない、矜持と善性を併せ持つ水木だったのかな。やっぱり水木は、鬼太郎の父が妻を通すことなく信頼を寄せることができた、初めての人間だったのかもしれない。
ただ正直、鬼太郎の父のことは、まだ読み込めてないんですよね。
水木は、首を落とされかけた(くらいで幽霊族は死なないものの)彼を庇った。鬼太郎の父は、もしかして、と思ったかもしれない。でも騙され、やはりな、と思っただろう。それが最後には相棒、友と呼ぶに至った。水木に対する彼の態度は緩やかに変わっていくけれど、具体的に水木のどんなところを見て軟化したのだろう。
鬼太郎の父は感情→行動がわかりやすいので、「そう感じたからそう動いた」は理解しやすいのですが、原因→感情つまり「何に対してそう感じたのか」の「何」がちょっとわかりにくい。おそらく彼には最初から、観客や水木には見えないものが見えているからだと思う。
彼はそもそも人間を憎んでいた。水木という人間のことを、最初はそこまで信用していなかった。水木は搾取する側に回ろうと必死だったし、おためごかしを言うし、彼を鼻で笑って見下し、息をつくように嘘を言うわけで……。
中盤の「暴いてやろうぜ」から墓飲みを経て終盤、水木がどんどん彼本来の善性を顕にしていくので、観客の「水木に対する好感度」と鬼太郎の父の「水木に対する好感度」が同調し、鰻登りに上昇していく。そこの変遷はわかるのですが……禁足地まで探しに来たのが第一のきっかけだったのかな……。わからん……。宿題にします……。
水木の話
無意識の希死念慮を燃やして生きているタイプ。おそらく序盤の彼は、「命を無駄にしたくない」「惨めになりたくない」「死にたくない」と思っている。戦争は終わり、生死の世界を脱したはずなのに、まだ戦争に囚われている。「捨てられる前にどうにかしなければ」と、野心と同時に焦燥感を抱いている。生きるか死ぬかの世界で生きているので、それ以外のことが考えられないし、余裕がない。生き残ることに必死。
一方で、生き残ったことに対する罪悪感もありそう。悪夢に苛まれ、最後の最後で自分より鬼太郎の母を優先してしまう、行いとしては正しいけれど、自己犠牲的な危うさがある。
※水木に憑いている霊ですが、水木の自己評価を上記の通りに解釈していたので、勝手に水木を恨んでいるものとばかり思っていました。どうやら最後のシーンで、彼らが水木の傍にいる描写があるようですね。見守っていたのかな。水木が孝三のようにならなかった理由が彼らなら、恨んでいたわけじゃないんだろうな。むしろ「生きろ!」と言われていた。そうだといいな。
劇中を通して、水木は変わっていく。最初はずる賢く、取り入るために親切をして、上辺だけの弔いを述べ、他人を利用して、おべっか使って保身に回る。野心を抱いた根源に恐怖・屈辱・怒り・諦観があるので、見下されていると理解しつつも葉巻が捨てられないし、誰かを愛する余裕もない。でもしっぺ返しを食らって、子供を救いきれず悔やみ、最後は「そうじゃねぇだろう!」となるあたり、やっぱり「汚いことをしてものし上がる」適性がない。
出世のために沙代を利用しようとしたが、彼女が残酷な搾取の構造に巻き込まれていたことを知り、自分もその一端になりかけたのだと気がついて嘔吐する。そのあとで沙代に憐れみを向け、しかし一途な愛は与えられず、かといって利用しきれずに目を逸らし、反撃を食らう。うーん、やっぱり、搾取する側に立つのが向いていない。あの時代の組織でのし上がるには、他者をある程度蹴落とす覚悟が必要だと思われますが、彼は蹴落とすことに罪悪感を覚えそうだし、蹴落とした相手が困窮したり退職したりすると後悔しそう。ふとした言動に元来の人の善さが出てしまっている。
弱者は強者に搾取される、という構図を否定し、そこから脱却することによって、戦争で見失ったものを取り戻した。後半の彼が、本来の水木なのだろうな。
水木の一人称は「俺」で、場面ごとに「僕」「私」を使い分けるが、最後は「僕」になる。実は「俺」も、強者になるために取り繕ったものだったのかなぁ、と思ったりしています。本作の水木と原作の水木をシームレスにするためなのかもしれないけれど、最後の水木はあらゆる憑き物が落ちた感じがするから。
彼は、吐いて、失神して、血塗れになって、鼻血を出して、吐血(喀血?)して、無力に首を絞められて、人間の弱く汚い部分を見せる。そこが「弱くとも生きている人間」を感じさせるし、弱い立場から脱するためにやった不適切な行いがちゃんと返ってくるので、根は善人であるが、清廉潔白ではないとわかる。こういうバランスが本当に絶妙。
彼が地に足ついているように見えたのは、彼がどこまでも人間であったことと、芯の強さと、立ち姿の重心の低さかな、と思ったり。
しかし記憶力がいいから、嫌なことや苦しいことも鮮明に憶えてしまってつらいだろうな。忘れたほうが楽なのに、忘れられないことがたくさんありそう。最後の忘却はとんでもなく悲しいけれど、ひとつの救いにもなっていたらいいな、と思います。
それから、当時を生きていた水木と現代の観客とのモラルの摺り合わせ方がめちゃくちゃ勉強になる。
水木はSLのなかでも沙代や時弥とのやりとりのうちでも、奇跡的に邪魔が入り、子供の前で煙草を吸っていない。
なお、この場面(下の動画)は考察が結構されているそうで、私は「思考中の水木、咳の音に気づいていない」→「葉を寄せるためトントンしていた煙草を吸おうと、マッチを擦る」→「咳の音が大きくなる演出が入り、水木が一瞬動きを止める」ので、煙草の有害性は知らないが、少なくとも子どもの咳を気にかける大人として描かれている、と読み取りました。
※1950年代は、英国では喫煙のリスクが疑われ始めた年代だったようですが、日本で調査が始まったのは1960年代のようだし(戸田, 1988)、1956年を生きる水木は受動喫煙について知らないんじゃないかな……。
いずれにせよ、彼は子どもを気にかける大人である。そして鬼太郎の父や克典社長に声を掛けられることで、子どもの前で煙草を吸わずに済んでいる。道端にポイ捨てするし、映っていないところではガンガン吸っているのだろうけど、現代と常識の異なる昭和31年を舞台にしながらも、「このキャラクターは子供を害するのではなく、いずれ子供を守る立場になる」という仄めかしが、煙草というアイテムと現代の視点を使ってなされている。
彼が生理的嫌悪を示したのも、搾取される子供の存在を知ったがゆえだった。なんだってやってやる、のし上がってやる、と野心を抱いた青年は、子供の搾取を拒絶した。そういう乱暴な地獄を戦地で見てきたから、というのもあるかもしれないけど、大人として、人間として、許せないことを許さなかった。
間違いはあるけれど、結果、善人として映る。この調節がうまい。
当時と現代のモラルや常識の違いをうまく織り込んで、キャラクターを動かしたりシナリオを進めたりしているの、かっこいいな〜と思う次第です。
あと水木の印象の変化ですごいな〜と思うのは、序盤は「こいつ、こすいな〜」と思わせる言動が多いのに、時々抜けているところがあり(Mと口走ってしまったり、軽率な言動をとったり)、人間味と親しみを感じさせるようになって、終盤は「頼む! 水木! もうおまえしかいない!」になるところ。
彼は己の罪を自覚し、「弱い立場の人間がそのうち強い立場になって、弱い立場の人間を利用する」という負のループから脱した。
水木は最初、沙代のことを「自分より上の立場のご令嬢」だと思っていた。だから取り入ろうとした。上の立場のものを利用することで、下の立場から脱却しようとしていた。でも乙米から沙代のことを聞かされて、自分もいつの間にか上の立場になっていて、沙代を利用していたことに気がついた。なりたくないものになっていたと自覚した。それは嘔吐するほどの衝撃で、激しい自己嫌悪に見舞われただろうな、と思う(もちろん『総員玉砕せよ!』が下地にある以上、慰安婦のこともあるだろう)。Mの原料が幽霊族の血だと勘づいていた鬼太郎の父に、「これがあれば日本は目覚ましい成長を遂げる」と告げた自分も思い出されただろう。「力が欲しい」と嘆いていた彼は、自分がいつの間にか力を持っていたことに気づいていなかった。
おそらく、Mの秘密を知り、自己嫌悪に苛まれた時点で、密命を果たす気はなくなっていた。あとは自分が逃げることを許すか否か。そこに沙代が来て、逃げる口実はできたけれど、逃げなかった。見ているだけをやめた。
個人的には、この迷いと決断に、「玉砕命令で自分ひとりが生き残った理由・罪悪感」みたいなものが乗っているのかもしれない、と思っています。それは希死観念や自暴自棄とは異なる感情で、水木は「死にたい」なんてこれっぽっちも思っていないだろうけど、なんとなく、追い込まれた末に生じる強烈な生存本能は、死を意識するものだと私は思っているので。
そんな状態で、愛を語るのは難しいよね。
そういえば、水木は都度フラッシュバックに苛まれ、一日目は戦場の夢に魘されて起きて、二日目も魘されて起きて、となれば三日目も魘されているのか? 日常的に魘されていて、でも四日目は二日酔いで魘されなかったのか? わからない。酒を飲んでも魘されていた可能性はある。悲しい。
周辺人物の話
沙代が欲しかったのは、村や親を非難し是正する正義の人ではなく、沙代を慰め、守り、抱きしめてくれる味方だった。憧れの外の世界から来た水木と出会い、「この人になら頼れるかも」「だってこの人は何も知らないから」と思った。でもそうはならなかった。水木は、彼女ではなく、彼女を利用して相棒を助けに行ってしまう。沙代も水木を見ていなかったのでは。
彼女は地獄からの脱出を望み、愛を望んだ。しかし水木にとって彼女は子供であり、被害者で庇護されるべき立場なので、どうしてもすれ違う。歯痒い。幸せになってほしかった。
沙代が求めていたものは、たとえば一緒に駆け落ちしてくれる相手のような、とことん自分を見てくれる人だった。あるいは「ただの女の子」として見てくれる人だった。虐待を受けていたこともあり、「そういった対象(表現ぼかしてます)」や「かわいそうな女の子」として見られたくなかった。だから東京から来た何も知らない水木を頼った。しかし残念なことに、水木は「彼女のような子が苦しむ地獄を否定する人」だった、のかな、と思っています。
水木は沙代に心底惚れているわけでも、全てを擲って沙代のために逃避行してくれる大人でもない。彼は戦争体験で深く傷ついていますが、子供に対する倫理観はめちゃくちゃまとも。時弥に未来の話をするシーンとか、「気を遣わせちまった」と反省するあたり、本当に優しく、子供に接する態度が一貫している。水木にとって、沙代はどこまでも子供だった。でもきっと沙代は、子供として扱われる機会が少なかった。だから子供であることを武器にできなかった。甘え方がわからないキャラクターは、その背景に察するものがあり、つらいですね。
沙代が発した「こんなところもう嫌です」が(わざとらしくも)子供らしい叫びだったから、水木は真実を知りながらも、彼女の願いを尊重して、彼女の手を取り、一度トンネルまで行ったのだろうな。
ただ、水木の沙代に対する姿勢は、一般人として健康的だと思うんですよね。彼は、沙代が知り合いの社長の娘だから、取り入るために近寄った。年下の夢見がちな少女だから、拒絶も受容もせず宥めて誤魔化した。庇護されるべき被害者だから、庇護しない大人を批判した。後半に向かうにつれて、あるべき大人の対応に変化している。直視できなくて目を逸らしたのも、見ていてつらかった(沙代と同じ気持ちになった)けど、まあそうだよな、とも思う。彼女と真正面から向き合うには、水木は部外者すぎる。そもそも最初の「助けてください」からすれ違い続けている。
水木にできるのは彼女を支えることだと思うけれど、沙代が欲しかったのは杖ではなかった。沙代を救うために必要なものはまともな大人だが、彼女が欲していたものはまともな大人ではなかった。ここの矛盾がつらい。
あと、克典社長の印象付けがうまい。あの村では部外者かつ(当時としては)常識的な親で、観客との橋渡しになっているが、発言が現代のモラルに合わず地位が高く態度が横柄なので、仲間にはならない。間違ったルートを進んだ水木の将来像。しかし水木に合うのは、二本の葉巻より一本の紙巻。高価な酒より天狗酒。
周辺の登場人物たち、特に一族側の作りこみは凄まじいので、ひとりひとり追いかけていきたいですね。
構図とかバディとかの話
劇中では、いずれ親となる主人公たちの素質が描かれている。
鬼太郎の父は水木を諌めるが、その言動は年長者(親)っぽい。最初から愛情深い性格で、子供を育て守る親の素質がある。
水木は鬼太郎の父と共に悪(トラウマ)に立ち向かった。それは彼が彼の戦争を終わらせるために必要なことだったし、その正しさと強かさが水木の性根だろう。傷つき、擦れながらも、情に厚く、過ちを悔い、嘆き、乗り越え、他者を守る。身重の女性を守る。大切なものを失いながら。そして彼も親になる。一見子供と縁がなさそうなサラリーマンだが、彼の子供への眼差しは、時弥や沙代(前項参照)への対応にも表れている。
本当の親でなくとも、配偶者がいなくても、ひとりの人間として、子供を守る大人になる。そして親友の子供を抱き、育て、6期の鬼太郎につながっていく。あの一族と似た義親子の関係ながら、愛を持って、互いを思いやる家族になる……なっていればいいな。 6期の鬼太郎は、散々な目に遭っていますが。
対比の構図も良い。鬼太郎の父が捕縛されているシーンの、水木の立ち位置の変化とか。ひとり靴下で下りてきて、雨に濡れ、最後は父側に回る。
時貞が時貞の肖像画に退路を塞がれ、弱者のフリが聞き入れられず終わっていったのも、「彼が自らのために目指した世界は弱者の生きていけない世界であり、その行き着く先はどん詰まりで希望も容赦もない」というメタファーになっていてうまいな〜と思います。
強者が権力を握って利を得る世界は「搾取する強者と搾取される弱者」という上下関係で成り立つため、さらなる強者が出てきた途端、強者だった自分が簡単に弱者になってしまう。自分という強者が弱者を搾取するという構造が齎すものは、かつて強者だった自分の破滅である、という構図、本当にアイロニックで痛烈。
鬼太郎の父と水木というバディにおいて、鬼太郎の父は妖怪であるため単純に強い(腕っぷしだけなら強者だ)が、搾取をしない。むしろ争い事は嫌いで騙されやすく、幽霊族であるため、搾取される側である。(水木が最初に鬼太郎の父を「負け犬」と評したのは、上下関係の構図にとらわれているから。)
鬼太郎の父が搾取の構図の外側にいる存在なので、水木は搾取される側(弱者)にならないし、搾取もさせてもらえない。つまりふたりの間には、上下ではなく横並びの構造がある。だから鬼太郎の父は水木を諭して天狗酒を振る舞うし、水木は「奥さん、見つかるといいな」と告げ、煙草をあげ、挙句の果てには、自分にメリットがなくても(正しくは戦争の構図から脱却するという再起のメリットはあるが、)窖まで来てくれる。
縦の構図が破滅し、横の構図が生き残る。どちらが上でもない、搾取する/されることをやめたバディが、希望をつなぐ。その描かれ方が実に美しく、力強い。信頼関係で成り立つ対等なバディが好きなので、とても嬉しい。
あと水木も鬼太郎の父も、お互いの言うことを全然聞かないのがいい。温泉で待ってないし、勝手に禁域に行くし、ちゃんちゃんこ着ないし。
視聴4回目
『ゲゲゲの謎』4回目行ってきた。公開して1ヶ月とは思えない席の埋まり方だった。
今回は、鬼太郎の父の心情の変化をメインで追いかけた。彼はいったいどのタイミングで水木を信頼し、相棒と呼ぶに至ったのか。鬼太郎の父の、水木に対する印象の変化が、どうしても気になる。
列車で声をかけたときの印象は、普通かマイナス。首を落とされそうになり、庇われてもまだ低め。座敷牢でのやり取りでは、探りながら警戒している。やはり禁域で水木が助けに入ったあたりから、正体を明かし、対話を試み、墓飲みで自己開示して友として心を許し、屋敷の地下で染み入るように水木を信頼して、相棒と認めた気がする。
初日は座敷牢のなかで(閉じ込められていたため)過ごし、2日目の「暴いてやろうぜ」も座敷牢越し。睡眠時に物理的な距離をとるのは、警戒心の表れかなと思う。3日目は酒を酌み交わすほどの仲になったので、ふたりで雑魚寝した可能性もあるけれど、やっぱり鬼太郎の父は座敷牢のなかで眠ったのではないか。というのも、鬼太郎の父は、水木が屋敷の地下まで助けに来たのを見て驚いていた。あの時点では恐らく、水木が戻って来ると思っていなかった。つまりまだ人間を信頼していなかったし、水木という人間に期待すらしていなかった。
視聴1回目のときから、「待っておったよ」の声音とか、水木の「行こうぜ」に対する反応がやけにふわふわしているな、水木を先に走らせるのも不思議だなと思っていたが、地下に戻ってきた→沙代を失い嘆く→泣きながらも立ち直る→窖の底へ、この間で鬼太郎の父は、水木という人間をゆっくり咀嚼しているのかもしれない。扉を開ける水木がまだ鼻声なように、鬼太郎の父も驚きを引きずりながら、水木に声をかけているのかも。そうかこの人間は逃げないのかと、先を走る水木の背中を見ながら実感した。ゆっくりと腑に落ちていく感じ。そこから全面的に信じることにした。だから窖で堂々と、相棒と呼べたのかもしれない。
人間を憎んでいた鬼太郎の父が、人間に対する認識を改めたのは、彼の妻の影響が大きい(人間の印象がマイナスからゼロ寄りになった)。しかし彼自身が実感を伴って人間を信頼できるようになったのは、きっと水木の影響が大きい。水木のような人間もいる、人間も捨てたものではない、と初めて思えた。人間の作る未来に大した期待を寄せていなかった彼が、水木という友の生きる世界を見たいと思えたのは、大きな変化だと感じる。
あと、沙代に手を引かれた水木がトンネルの前で立ち止まり、「あいつに笑われちまう。それは癪だ」という旨のことを言うが、たぶん彼を笑うのは彼自身なのだろう。情けない自分が許せなかった。だから、いつの間にか搾取する側に回っていたことの嫌悪感と罪悪感に向き合い、逃げることをやめた。
後半、水木も鬼太郎の父もそれぞれ自分の目的のために立ち上がっているのが良い。水木は贖罪や矜持、是正のため、鬼太郎の父は愛する妻を救うため、異なる目的を抱えた似た者同士が、それぞれが同じ方向を向いている。互いを疑うことなく、己のために肩を並べている感じが大変良い。
それから今回気づいたこと、気になったこと。
・水木は2度、鬼太郎の母を横抱きしている。救い出すときと、埋葬するとき。
・村人らしき鉤鼻の老婆、見間違いでなければ、そこそこ出番がある。もしかして妖怪?
・時弥の当主になる儀式は結局行われたのか? 乙米が地下にいるので、行われなかった可能性が高い。時貞はいつ時弥に成ったのか? 熱にうなされているシーンから、マブイ移しの儀式は始まっていた?
・やっぱり時貞は毒殺された? 時貞が亡くなっているシーンで、お茶が零れ、本人は喉元を押さえて絶命している。実は服毒自殺ではないか?
上記の最後の項、マブイ移しの計画の一環だった可能性がある。
「齢80を超えて~」の発言から、時貞は80歳を超えてから新しい身体を求め、時弥を作ったことがわかる。時弥は年端も行かない子なので、時貞の野望(乙米曰く「お父様の計画」)の立案は、ここ最近だと推測される。
乙米の「栄えある龍賀の女の務め」発言からも、「霊力の強い女性の誕生」は龍賀家当主に課せられた使命である。実際、当主になった時麿は沙代に迫った。一方で「時弥の誕生(マブイ移し)」は、時貞オリジナルの計画だと考えるのが自然。マブイ移しはおそらく『ゲゲゲの謎』オリジナル要素なので、どういった手順を踏むのかわからないが、寿命で亡くなるとうまくいかない儀式なのかも?
龍賀一族は、克典社長を後継ぎにする気がさらさらないですよね。時貞は時弥として戻ってくるつもりだったから、遺言書も最初から仕組んでいるはずで、あのシーンはほとんど茶番だったのかな。
ここらへんの計画の内容は、1回目の龍哭時の乙米と時麿の会話から考察できそう。でも「いまの、そういうことよね」とか、「ととさま……」とか、意図の掴みにくい会話が続くからなぁ。そのぶん観客は「どういうこと?」とストーリーに引き込まれるのですが。
上記のことを考えながら、ふと思ったのですが、「霊力の強い女性の誕生」を目的としているなら、その道中で当主候補になりうる男児が生まれることも多々あったはず。しかし跡目争いは一族の自滅を招きかねない。つまり「霊力の強い女性の誕生」をもくろむ過程で生まれた嬰児が、望まぬ男児だった場合、どうしていたのだろう。もしかして、次男の孝三に“三”が含まれている理由って……と考えて、うわあ、と思ってやめました。
龍賀は「霊力の強い女性の誕生」を求めながら、家父長制が原則。同じ人がずっと上にのさばり、権力を行使する。加えて本編シーンの新聞の切り抜きを読む限り、時貞は叙勲を受賞している。しかも授章式でのスピーチ内容が、まんま窖の発言なんですよね。あの村の惨劇の背景には、人間の欲望と、認めてはいけない人を認める腐った社会、という構図が見える。6期の鬼太郎だなぁと思います。
考察し過ぎなところもありそうですが、細部までこだわって作ったのだろうと思わせる映画なので、いろいろ考えてしまいますね。小ネタも多い。楽しい。
その他
水木を送り出した血液銀行の社長の台詞、戦地に赴く必死の兵士を送り出すみたいだなと思ったんですよね。回想シーンでも「戦争は終わっていない」と言うし、血液銀行という場所や、戦地の兵士が企業戦士になった旨の発言、あの村の在り方、全ての構造が、「使うものと使われるもの」「搾取するものとされるもの」という上下関係で成り立ち、一貫していて、作り込みが丁寧。
血液銀行の重役たちも、社員たちも、職場復帰した水木のことを、使い捨ての駒が失敗して帰ってきた、と見下したのだろうな。でも、当時の出世コースからは外れるけれど、水木が不幸だったかと問われると、絶対にそんなことはないと思うんですよね。運命に出会って、注ぐ愛を知って、鬼太郎の父として、幸せに暮らしたんじゃないかな。当時の人から見ると男の役割も碌に果たさない「負け犬」かもしれないけれど、現代の人から見ると幸福な人物に映る。
それはそれとして、水神が来ていることは6期ゲゲゲの鬼太郎でほぼ明言されているので、気になりますね。映画のその後はどういう設定なんだ?
作中では人間の嫌な部分が描かれているが、最終的に悪いのは「人間が作った構造」に持っていったのもすごいし、それによって生まれた恨みを解消するのは数多の犠牲と少なくとも70年の年月が必要だった、というのもすごい。
対幽霊族特化の技術に鬼太郎の父が負けた終盤、人間の気力と精神力で大本を断って水木が勝ち越したの、6期鬼太郎の見上げ入道を思い出す。やっぱり6期の設定なのだな、と思わせる。
鬼太郎と鬼太郎の父が、それぞれ下駄の足跡を辿られて人間に行き先がバレたのも、似ていてほっこりしますね。
あと、愛も見ようとしなければ見えないものだなぁと思ったりしています。
主題歌がないのも良い。アーティストや新譜を(あえて?)使わないのもよかったなあ。『ゲゲゲの鬼太郎』には、みんなが知っているあの歌があるから。
原作を改めて解釈したり、原作の一部から新たな作品を創作していくことで、神話や伝承が長く広く(時にはねじ曲がりながらも)続いたように、『ゲゲゲの鬼太郎』も妖怪の物語として後世に残っていくのかな、と思うなどしました。そういうわけで『鬼太郎の父と鬼太郎の母の出会い編』がめちゃくちゃ観たいけど、さすがに原作に要素がなさすぎる。
社会批判を詰め込んだ6期の設定のもと作られた映画なので、最後の「この世界はまだまだ……」と穏やかに応える鬼太郎の父の台詞が響く。
矛盾や葛藤がふんだんに盛り込まれながらも互いを邪魔しない、調和したシナリオだと思う。演出も本当に緻密。ここまで作り込んで、あのとんでもない仕上がりになるのかと思うと、つくづく創作は気が抜けないな、と思います。いかなるときも誠実さと初心を忘るべからず。
いかんせん要素が多い作品なので、じっくり観る機会を得た暁には、随所の繋がりや構造を丁寧に書き出していきたいですね。104分でここまでみっちり詰め込んで、全てが結びついた無駄のない機能的でわかりやすい話になっているので、すげー勉強になると思う。
というわけで、DVD発売の暁には、劇場版映像、ディレクターズカット版映像、シナリオ集、設定資料集、絵コンテ集がまとまった豪華特典付き初回限定版がほしい。特にシナリオが読みたい。本当に読みたい。
あとあの最高のエンドロール、スタッフクレジットを見ようとするのですが、無理です。絶対に左側見ちゃうし、泣いちゃう。あと特典がずるい。泣いちゃう。ぜひともDVDに付けてほしい。
いやー、実に面白い映画です。
気になった部分・良いと感じた部分を言語化することが好きなので、また何かあったら、随時追加していきます。