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共有された文化がもたらすもの
導入
この記事は漢字記号説という記事の副産物です。
余談として書いていたつもりが、思っていたより長くなってしまったので、一つの記事として出すことにしました。
気になる人は本編も読んでくださるとうれしいですが、余談というだけあって、本編とはほとんど無関係で独立しているので、読んでいなくても楽しめると思います。
下にリンクを貼っておきますね。
文化の共有について
最近世間ではアザラシ幼稚園なるものが人気だそうですね。
どうやら、そこの視聴者の方々は独自の言葉の定義を利用しているようで、
アザラシが立って泳いでいることを「茶柱」、スパチャした人のことを「千利休」と呼ぶそうです。
一般的に言えば、茶柱はお茶に茶の茎が浮かぶことを指し、千利休は千家茶道の祖を指します。
なので、アザラシ幼稚園について知らない人に対して、
「昨日の茶柱がかわいくって、千利休が大量発生してたのが面白かったんだよね~」
なんて言ってみれば、大混乱間違いなしなんじゃないでしょうか。
この文章の意味が正確に伝わるのは、アザラシ幼稚園という同じ文化を共有している人達の間だけです。
もし、同じ文化を共有していない人に正確に伝えようとするならば、
「昨日アザラシが立って泳いでいたのがかわいくって、スーパーチャットをする人が後を絶たなかったのがおもしろかったんだよね~」
と言わなければならないでしょう。
長ったらしくて面倒ですね。
もし短い言葉で同じ意味が伝わるのであれば、ほとんどの人が短い言葉を選ぶと思います。
このように言葉を短くする考えは、一般的によく見られます。
例えば、状況がよくわからないから端的に説明してほしいと言いたいときに、「今北産業」といえば伝わる文化圏もあれば、「り」といえば了解の意だとわかる文化圏もあるわけです。
ネットスラングで「草」と書いて面白いの意を示すものがありますが、その使いやすさからか、若者の間で急速に広がり、もはやネットスラングの域を超えて一般的になりつつあります。
日本の歴史を振り返れば、似たようなことをご先祖様たちもやっていました。
それが、和歌です。
学校で源氏物語をやったときにこんな歌をやりました。
生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を
おくらす露ぞ 消えむそらなき
源氏物語の解説を知っている人は、この歌が何を意味するか理解することができますが、知らない人はなんのことかさっぱりだと思います。
現代に生きる私たちは、源氏物語が出された当時の人たちと文化圏がすっかり変わってしまったので、この和歌を理解するためには、まず古典文法を学んで、古文単語を学んで、古文常識を学ぶ必要があります。
ですが、当時を生きていた人達にとって、若草は幼い少女のことを意味し、露はいつ死んでもおかしくない人のことを指し、消えるとは死ぬことだということがわかっていたので、わざわざこれは「老い先短い尼君が幼い少女を残しては死ねないと少女のことを案じている歌なんだよ」と説明する必要はなかったのです。
やっていることが、アザラシ幼稚園の視聴者の方々とほとんど一緒でとても面白いです。
今も昔も日本人が考えることは変わらないですね。
余談
文化を共有している状態では、あまり多くのことを語る必要はありません。
そして、最低限のことですべてが伝わる感覚というのは不思議と人と人とのつながりを強固にする力があるのではないかと思います。
全てを伝えなければ伝わらない世界と、すべてを言わなくても伝わる世界。
後者の方が人と人との間に見えない信頼の糸がつながっているようで、安心に暮らせる社会が出来上がると思います。
ただ、私はそんな一言だけ言って察しろと言われても「はて、なんのことやら?」となるタイプなので、前者のタイプの世界のほうが個人的にはありがたいですけどね。
おそらく、今日本を動かしている人たちや会社のお偉いさんになっているような年齢の人たちは、小さいコミュニティの中で密接につながることが当たり前の世界で育ってきているので、今の大きいコミュニティの中で線を引いてプライベートを確保しようとする考えとは少しズレがあるのだと思います。
昔は目に見えているもの、実際に聞こえてくることしかなかったのが、今はインターネットが普及し、情報であふれるようになりました。
個人の自由は尊重され、もはや皆と同じである必要はありません。
それぞれが好きなことをやっても、誰も気に留めません。
おそらく社会的同調圧力のようなものは、年々減ってきているのではないでしょうか。
けれどその反面、昔のように共有された安心感のようなものを得る機会は格段に減りました。
どちらの方がいいんでしょうか?
皆さんはどう思いますか?