第193回 菅根(すがね) の巻
藤原菅根(ふじわらのすがね)、菅家廊下(道真塾)出身で道真の愛弟子。
出世が遅れていたのを心配した道真が宇多帝に進言し、皇太子(醍醐帝)の家庭教師になります。
時平政権でも重用され、公卿(上級貴族)にまで出世しました。
道真追放の時には、助けに来た宇多法皇を宮廷内に入れなかったことから、後世の物語では「裏切り者キャラ」として有名になります。
史実の藤原菅根は53歳で亡くなっています。当時50代での死は早死にとはいえず、特に不自然さはありませんでした。
怨霊伝説を時系列でいうと、道真の死から3年後にトップバッターでアンチ道真の藤原定国(さだくに)がやられ、5年後にやられる菅根は2番目。 時平は3番手で6年後、4番バッター源光10年後。
実はここまでの道真怨霊説は後世の後付け。意外にも当時はまだこの時点で世間に道真=怨霊の認識はありませんでした。
道真没後20年もたった時、21歳の若い皇太子が早逝し、初めて怨霊道真説がささやかれ始めます(うっ、政治的なきな臭さ…)
ビビった醍醐帝、あわてて20年も昔に出した道真追放令を破棄し、道真を右大臣に戻します(つまりここで醍醐帝は実質、道真の冤罪を認めてしまったことになります)。
帝は冤罪を認めて道真の名誉を回復しますが事態は好転せず。
そのまた2年後に皇太子の子ども(醍醐帝の孫)が5歳で夭逝。いよいよ「怨霊じゃ~!」の大騒ぎに発展します。
さらに5年後、清涼殿(天皇がいる場所)での会議中、帝の目前で落雷があり、数名が焼けただれ亡くなる大惨事があります。これが怨霊道真=雷神(天神)の決定打となります。
この落雷事件で焼けただれ亡くなったのはマンガ大宰府編「白と黒の巻」で虚偽レポートを書いた藤原清貫(きよつら)。この事実で道真怨霊説がいよいよ真実味を帯びます。
それからわずか3カ月後、心労のため醍醐帝が崩御し、いよいよ宮廷は大混乱に陥ります。