第165回 法皇と菅根 の巻
藤原菅根(すがね)。道真の愛弟子。
才能があるのに同期に比べて出世が遅れていたのを心配した道真が、帝に昇進を進言しました。道真お墨付きの若手ということで、以降はぐんぐん出世していきます。
しかし道真追放の際は、抗議で訪れた宇多法皇をとおせんぼ。門の中に入れませんでした。
法皇は後日再び訪れ、なんと門の前で徹夜の座り込みを実行しています。
■『日本紀略』・七百七十九(左ページ)8行目あたり ↓
このあと菅根は「法皇を阻んだ罪」で形式上、大宰府左遷となりますが1日で解かれて復帰。それからは時平政権で重用されてトントン拍子で蔵人頭(=秘書長)から参議(現在でいう内閣の大臣クラス)にまで出世します。
道真に目をかけられて出世したのに時平側についたということで、後世では「裏切者キャラ」として知られます。早世したことから、道真の怨霊にやられたという伝説も生まれました。
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過去のマンガでも菅根は2回登場しています。
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「法皇の抗議はただのジェスチャーだった」とする珍説もあります。
実は宇多法皇は道真を切り捨てたかったのではないか? 道真研究を始めた当初、私もそう疑ったことがあります。
自分のコントロール下にあった時平や醍醐帝に道真が左遷されているのに、助けることもせず黙認したからです。「門前抗議はジェスチャー説」もひょっとしたらそうなのかも… と思っていました。
杉本苑子『山河寂寥 ―ある女官の生涯』という、藤原摂関家の影のドン・淑子を主人公にした、非常に珍しい小説があります。ここでの設定ではまさに宇多法皇の「ジェスチャー説」を採用していて、道真との今までの関係を考えて形式的に抗議に行く、そんな冷徹な宇多帝が描かれています。
しかし上記にあげた史実『日本紀略』を見ると、法皇は一度抗議に行った後わざわざもう一度訪れ、なんと門前で徹夜で抗議しているのです。法皇たる人がなかなかここまでできるものではありません。よほど強い抗議を示したかったものと思われます。
でも、誰に?
ここがポイントです。
自分のコントロール下にあった時平や醍醐帝に対して・・・ではなかったでしょう。
時平や息子・醍醐帝であれば追い返されてもその後でいくらでも会う機会があったからです。そこで決定を覆すこともできました。
(実際に、同時に左遷された道真の息子たちは全員、都に戻されています。)
それができなかったのは道真追放が、宇多法皇でもかなわない存在が決定した事項だったと考えられます。
つまり道真追放は、時平や醍醐帝に命令を出せる人物=藤原摂関家のドンであり、自らの養母でもある藤原淑子(よしこ/しゅくし)の決定であったという結論が導き出されるわけです。
道真もそれが十分すぎるほどわかっているので、大宰府でも宇多法皇や時平に触れる詩は一切書きませんでした。
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一般的に道真追放は、宇多法皇と時平の対立といわれます。
しかし、宇多法皇と時平では宇多法皇の力が強すぎて勝負になりませんでした。
その証拠に、宇多法皇は道真追放後も相変わらず時平に対しては高圧的な態度でマウントをとり続けています(でも仲が悪かったわけではないようです)。
そういった点からも、道真追放には巨大な権力が時平のバックにあったと推測できるのです。
その推測を裏付けるかのように宇多帝は虎視眈々と反撃の機会を待ち続け、淑子が亡くなるやいなや、温存していた子飼いの藤原忠平(時平の弟)を一気に押し上げ、天下をとるのです。
忠平が最終的な天下人となったことは宇多の勝利であると同時に、藤原摂関家の勝利でもある点が非常に興味深いです。