【読感文_12】BORN TO RUN 走るために生まれた
私は走るのが好きだ。
どれくらい好きかというと、時間があれば、ふと「走ろう」と10~20キロくらいトコトコ走ってしまうくらい好きだ。
(もちろん、その後飲むビールの量は走った距離の2乗。笑)
そんな私にとってこの2010年に発売された「BORN TO RUN」は様々な意味で興味深かった。最初は、
「え、何この本?BORN TO RUN?ブルーススプリングスティーンの曲?何?タラウマラ族?」
こんな感じ。
この本の中心となるのはメキシコの山奥に住むタラウマラ族とそれに魅了された筆者のクリストファー・マクドゥーガル氏と多くの人々。
個人的には今まで何となく走っていたがそれを再考するきっかけとすることができた。
本の感想 - 速く走るか、怪我無く走るか、そして無意識の習慣にいかに興味を持てるか。
この本は、まず登場人物が多い。しかもその登場人物を追っていると中盤あたりで学術的なエビデンスを基にした現代のスポーツ産業の批判を挟むもんだから毎度のように時間がかかった(つまり、私の実力不足)。
話の全体像としては、「走る民族」ことタラウマラ族というメキシコ山岳部に住む人々にフォーカスを当て、表舞台に出たがらない彼らを追い、生活を共にし、そこに住む人との関わりから筆者が気付いた現代スポーツの課題、そして人間が走る「意味」を考える内容。
個人的に特に面白かったのは「ワラーチ」と呼ばれるタラウマラ族が着用するランニングサンダル。
彼らは既製品の何万円もするシューズではなくペラッペラのお手製サンダルを履いてそのまま何十キロを顔色一つ変えずに疾走する。そんな人たちが世界トップレベルでスポンサーの多大な支援を受けるウルトラランナーたちをバッタバッタ倒してしまう。
まず、現代スポーツの常識から考えると、彼らの足先から着地して走る(フォアフット走法というみたい)ランニングスタイルや生活様式は人体の理にかなった走り方をアプローチした「速さ」を求める我々の理論とは明らかに逆行をしているのだ。
これを普通のランナーが走るとこれではペースは維持できないし何より怪我をしてしまう。
そう、「普通のランナー」は、だ。
本著の中を読み進めると今、流行の厚底シューズを身に付け、時期を見極めて炭水化物など栄養素を科学的に取り入れ、常に自己新記録を目指すランニングスタイルの「普通のランナー」の方が人間本来の走り方を出来ておらず、怪我の確立が一層高いことが分かったのだった。
そもそも双方の目指すものが違うために比較することも難しいと思う判明、同時に、自分は「何のために走っているんだっけ」と、ふと思ってしまった。
特に大会を目指して走っているわけでなく、ただ好きだから何キロも走っている私にとって、走る目的を読みながら悶々と考えていた。
まとめ
で、そんなこんなでまとめに入るが、そのヒントは巻末にカバーヨというタラウマラ族に魅了された人物が放った一言だった。
「私が人に望むのはひとつ、こっちに来て走り、パーティをし、踊って食べて、われわれと仲良くやることだけだ。(中略)走ることは自由でなきゃいけないのさ」
「あ、そんなに難しいことを考えないんでいいんだ」
私は思った。
さまざまなイベントが起こる人生の中に誰にも干渉されない自由を求める手段。それがカバーヨの言う走ることだ。
全体を通じて人間の「走る」という行為から人生の在り方まで考えるとは読む前は想像もしていなかった。本当に面白かった。
ただ、理解が難しい部分も多々あったので時間をおいてもう一度読んでみたいと思う。
(ワラーチ、DIYで作れるみたいなので作ってみます。)