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#4 肚落ちっ!「人は生まれつき必要なものを全て満たしており、ありのまま直すところのない存在です」

すんなり受け取れない!

先日、コーチングを学んでいる方に教えてもらったこの言葉、
急き立てられるように走り続ける私たちに、
突如現れた給水所のようなやさしい言葉です。
ですが、
この言葉を聞いたとき私には、2つの感情が湧きました。
それは、
素直に感謝して、その水を飲みたいという気持ちと、
「おいおい本当か?私たちに休んでる暇はないんだよ」
という猜疑心から、素通りしてしまいたくなる気持ちです。
この葛藤の正体が何なのか、考えてみました。

”不完全”というの呪いの言葉

「全てを満たしている」「直すところのない」というワードに猜疑心を
もってしまうのは何故でしょうか。それは、私たちにかけられた
呪いのせいだと思うのです。
私たちは小さい頃から、
あなたは不完全だから、沢山学んで、ちゃんとした大人になりなさい」と言われ、教育を受けてきたように思います。
ここでいう”ちゃんとした大人”というのは、他人に迷惑をかけず、
他人と同じように生きられる人、というイメージを私は持っています。
形を変えて投げかけられる”あなたは不完全”という呪いの言葉にまんまと騙されて、「私は満たされていない」「直すところだらけだ」と思い込み、”完全な人間”になるために、日々努力をしているということはないでしょうか。

鏡像段階という概念

ここで一つ、哲学的な視点を補助線として引きたいと思います。
それは、ジャック・ラカンという哲学者が提唱した鏡像段階という概念で、
人間は発達段階におけるどの時点で自己を認識するのか、という話です。

人間は、お母さんのおなかの中で10か月を過ごした後、未成熟の状態で、半ば強引に、世の中に放り出されます。放り出された赤ちゃんは、自分が何者であるか理解しないまま、他者の手を借りて成長します。おそらく最初は、自分とお母さんは一体で、切り離されたことすら理解できていないのでしょう。そこから、様々な知覚の発達を経て、なんとなく自分というものは独自の感覚を持っているのかもしれないと気付き始めるものの、まだモヤモヤしていて気持ち悪い状態が続きます。
そこで登場するのが、自分を映し出す”鏡”です。
ラカンは実験により、6か月頃の赤ちゃんが、鏡に映る自分の姿を見たときに、嬉々として喜び、遊び始めることを発見します。ラカンはこの行動を、「赤ちゃんが鏡に映る姿を自分だと認識した」瞬間だ、と解釈します。どっちつかずのモヤモヤした気持ち悪い感覚から解放されて、「そうか!私は独立した1つの存在なのか!」と気付く瞬間だというのです。

鏡像段階の悲劇
問題はここからです。赤ちゃんが気付いた”鏡の中の自分”は、あくまでも自分ではありません。自分の外側にある虚像です。もしも、この原初体験を全ての人が持っているとすれば、自分というものは自分の外側にある、と思い込んでも不思議ではありません。
最初は、お母さん=自分だった。それがどうも違うと感じ始めたころ、やっと自分を発見したと思ったのも束の間、その鏡の中の自分すら、外側にある自分だった。
人間は、自分の目で直接自分の姿を見ることはできません。
それでもなお、自分を認識するために、自分の外側にある自分を、自分だと思い込む他ない。
自分は”外側にある”ことがデフォルトであるならば、外側から投げかけられる言葉に何の疑いもなくしがみついたとしても無理はありません。
スタートラインにおけるこの思い込みが、「あなたは不完全」という呪いをすんなり受け入れる土壌となったとは考えられないでしょうか。

不完全という呪いの言葉の巧妙さ

私たちは呪いにかかっている、ということは肚落ちした気がします。では、
「あなたは不完全」が呪いであるならば、本当は「私は完全」なのでしょうか?
ここで冒頭の言葉に戻ります。この言葉にはおそらく英語の原文があります(教えてくれた方には確認取ってないので、私の推測です)。それは、
People are naturally creative, resourceful and whole.
ここで注目したいのは、最後のワード”whole”です。”perfect”ではない!
wholeという言葉は、「そのまま」という意味を含んでいて、もともとのありのままの姿をイメージします。
対してperfectは、「熟達」という意味を含んでいることからも、変化して
たどり着くイメージがあります。
呪いの言葉は「不完全」の方が都合がいいのです。なぜなら、不完全の先には完全があり、目指すべき姿があるのです。目指すべき姿がある、と思い込ませることで、社会が一定の方向に向かいやすく、呪いをかける側からすれば、人々をコントロールしやすいからです。

素直に受け入れる

最初に感じた葛藤の一方にある猜疑心は、どうやら私たちにかけられている呪いであった。
そうであるならば、もう一方にあった「やさしい言葉」という受け止めを、素直に感じてみたい。そう思えてきます。
「人は生まれつき必要なものを全て満たしており、ありのまま直すところのない存在です」
呪いの言葉を捨てて、この言葉をもう一度かみしめてみます。
得体の知れない何かに追われ、見えないゴールに向かって走り続けてきた自分。
足りないものがあると漠然と感じ、それを埋めるために必死に努力したけれど、埋め切れた感覚がない自分。
常に自分の外側にある他者の言葉を信じ、その言葉を尺度にして右往左往している自分。
そんな自分の1つ1つの行動が、苦い記憶が、救われていく感覚。成仏して消えていく感覚があります。
きっと、この言葉は真実だろう。そう思えてきます。
心の底からそう思えてきました。これで肚落ちですっ!!

最期まで読んでいただきありがとうございました。
次回は、肚落ちできたこの言葉のチカラについて考えてみたいと思います。


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