読書感想文|日常に潜む 「現実」と「幻想」
僕たちは「幻想」を抱えながら生きていると思う。
本当は鬼なんていないのに節分の日に豆まきをしたり、雷が出てきたらおへそを取られないように隠したり、幼い子が体をぶつけたら「痛いの痛いの飛んでいけー」と慰めてみたり、とにかく冷静に考えたら可笑しな言動を取っている。
もちろん、それが悪いと言いたいわけではない。それらは文化の中に溶け込んでいるし、たとえそうでなくても、人々にとって「幻想」は必要なものだと僕は思う。
村田沙耶香 『信仰』
最近、村田沙耶香さんの『信仰』という短編小説を読んだとき、「幻想」と「現実」について考えさせられた。
『信仰』の主人公である永岡は、「現実」を信仰している女性だ。要するに、友達が高級なアイテムを持っていると、「原価いくら?」と訊いてしまう現実的な女性だ。
だから、友達がブランドのバッグや高価な化粧水を持っていると、永岡は「ぼったくられてない?」と言って、友達を「現実」へ「勧誘」していた。それは、友達を幸福にしたくて、騙されてほしくなくて、善意から出た言葉だった。けれど友達からすると、自分たちの「幻想」を尊重せず、「現実」を押し付けてくる永岡に嫌気がさしていた。
永岡の妹も同じだった。
妹は毎朝、高額セミナーに通っていた。そんな妹を「現実」に戻すために、永岡はセミナーで詐欺にあった人のブログを印刷して家の目立つ場所に貼った。セミナー詐欺が特集されたニュース番組を録画して、妹の前で延々と流し続けた。そして、最終的には、妹から「『現実』って、ほとんどカルトだよね」と言われて絶縁する始末である。
そんな永岡の「現実」への信仰も幼少期の頃は、みんなからかなり重宝されていた。お祭りで光るヘアバンドを買おうとする友達に、「原価100円くらいだよ」と言うと、近所に住んでいる大人達に「しっかりしているねぇ」と褒められた。まわりの友達からも「ありがとう!」と言われて、感謝された。
けれど大人になるにつれて、永岡の「現実」への信仰は、友達から受け入れられなくなっていく。「原価いくら?」という永岡のささやきは、まわりを幻滅させる悪魔のささやきと化していくのだった。
だから、永岡は友達から嫌われないためにも、「幻想」を信仰しようと努力するようになる。友達の勧めで鼻の穴のホワイトニングの治療を受けたり、原価よりはるかに高価な服を身に纏ったり、原価の10倍はするコーヒーを無理に飲んだりする。
けれど永岡は、完全に「幻想」への信仰を受け入れたわけではなかった。なぜこんなに高価なものを買わなくてはいけないのだろう、と心の中では思っていた。
そんなある日、永岡は中学の同級生だった石毛からカルトの誘いを受ける。
二つの信仰
世の中には、「幻想」と「現実」の2つの信仰がある。おそらく、2つの内どちらかが欠けてもだめで、両方の軸をバランスよく保つことが人間にとって大切なのだと思う。
もちろん僕は詐欺が正しいと言いたいわけではない。人を騙してお金を搾取するのは犯罪なのは、言語道断だ。
けれど、人は盲目的に何かを「信仰」しているし、「現実」的に考えたら間違っている場合もある。『信仰』に出てくる永岡の友達だって、原価の何十倍もするようなコーヒーを飲んだり、効果があるかも分からない化粧水を付けたりしている。
彼女達にとって、たとえそれが「現実」的に考えたら可笑しなことでも、それを信じることで自分たちは幸せに暮らせていると感じているのだと思う。
これは、『信仰』に出てくる登場人物だけの話ではない。もし、「幻想」という「信仰」がすっかり消えて無くなってしまったら、僕たちは生きづらくなると思う。
だから、すべてを「現実」的に捉えたり、「幻想」的なことばかりに拘るのではなくて、2つの信仰をバランスよく信じていることが幸せなのかもしれない。
「幻想」という名の物語
「幻想」というのは、別の言葉で言い表すと「物語」なのかもしれない。僕たちは日常生活のなかで、意識しているかどうかは別として、何かしらの物語を創っていると思う。
例えば、「宝くじが当たったら、何を買おうかなぁ」と妄想したり、ドラマに出てきたあの俳優(女優)と結婚できたらいいのに、みたいにありもしないことを想像したりする。
これは、「幻想」の信仰者としての証である。
小説という物語は、「幻想」の信仰者の読み物だと思う。実際に自分の身に起こったことでないのに、「物語」というフィルターを通して追体験をしながら、「幻想」を感じることができる。
そして、小説を読んで得られる「幻想」の多くは、「それって、〇〇ですよね」と一言で片付けることのできないテーマであったりする。だから、小説に登場した様々な文章を反芻していくうちに、新しい考え方に出合うことができるのだと思う。
今日は、十五夜の月が見える日だ。
空を見上げると、うさぎが餅つきをしているかもしれない。もし、あなたが「現実」的な人でも、たまには「幻想」を信仰して、こんな風に想像するのも悪くはないと思う。