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支援者のgive & take

自分の不調をごまかさない

とある施術を受けるために定期的に通うことにした。

4月。
腰痛で全く動けなくなった。
自分のお世話すら出来なかった。

もう二度とあの辛い思いをしたくない。

自分で自分の体を思うように動かせない辛さ。
自分の世話を人にしてもらう身になる辛さ。

それだけではなく、仕事上も私がやるべきことが出来なくて、ただ相手を待たせているという辛さ。

自分で望んでいたことだけど、他の人では代わりのきかない仕事をしているから、私の動きが止まると仕事の大部分も止まる。

周りを心配させて待たせている。
周りが心配してくれているのは、私にとって嫌な感覚とは違うけれど、心地いいというわけでもない。

ずっと以前の私なら、本当はまだ完全でなくても、〝もう大丈夫です〟って言っていたと思う。とにかく待たせないことを真っ先に考えた。

でも今回は、もう大丈夫って言える自信がない。

大丈夫なんて不用意に言って、また同じようなことが起こってしまったら、かえって無責任かもと思うからだ。

だから、ちょっと不安があったときは誤魔化さず、自分にも周りにも正直になってきちんと治そう。

私の気持ちはその一点に向かって、その末にたどり着いたのが、今の場所。

共有出来る存在の重み

今回出会った先生は体の変化や日々の生活への影響に関して細かく相談に乗ってくれる。

本当なら、自分なりに調べて予防的なことに積極的に取り組みたいところだ。
ネット上を始め、情報は集めようと思えばいくらでも手に入る。

だけど、すでにこの手は一回使っていた。
前回この予防的な取り組みを自分で進めてうまくいかなかった。
むしろ悪化してしまった。それで、専門の先生と相談しながら慎重に、というスタイルに変えた。

すると…
まだ数回通っただけだけれど、相談できる存在がいるという安心感を得ている。
実際調子も悪くない。

先生には専門知識と長年の経験がある。個人個人の僅かな身体や生活の違いに応じて丁寧に対応してくれる。

ひとりひとり違うんだから焦らないで。
先生が言う。

私も、現場で働く従事者。
専門を持つ者として先生を見た時、見ている方向が同じという感覚がある。
実際そんなやりとりも出来た。

これだけで今は救われている。

人は何かを共有出来るだけでこんなにも安心感を得るのか…

仕事上私が相談に乗る人たちの中には、自分の内面を共有出来るのが私だけ、という人がたくさんいる。

彼らにとって、共有出来る私という存在があるだけできっと意味がある。
ということは、私にとって彼らの存在もきっと意味がある。

支援は一方向から与えるだけで成り立つものではない。
ひたすらgiveしてると思っていても、同時にtakeがある。

見た目だけではそう見えないことが多いけれど。

常に双方向のやりとりが必ずある、と私は思っている。
その支え合いの中でみんな自分の足で自分なりに立つ。出来る範囲で。

今更ながら、自分の日々の生業に対する重みを感じて、帯をしめなおさなくては、と思った。

真面目な自分が真面目に語りたくなった。
無理にウケを狙ったり、ユルユルすることもない。

何事も寛容にいこう♫


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