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頭の片隅に見つけた〝金魚のフン〟


頭の片隅に収まらなかった…

あの行動にはどういう意味があっただろう??

かつて自分が取った行動をふと思い出して、振り返ることがある。

最近落ち着いている。だから振り返ることが出来る。
癒しは進んでいる、と確認できる瞬間でもある。

以前は〝頭の片隅ではわかっている〟ことがあった。

あった、どころか、たくさんあった。
それらをぜ〜んぶ片隅に追いやって…

ついには頭の片隅が足りなくなった(苦笑)。

片隅に追いやったつもりが、その量が多すぎて片隅に収まりきらずに、次第に視界に入ってくる始末だった。

それが今では、わざわざ頭の片隅に目をやって、なにを片隅に追いやっていただろう?見てやろう、となかなかチャレンジャーな自分が時折顔を出す。

私の中のナニカはずいぶん変わってきている。

私は〝金魚のフン〟だった

先日ふと頭の片隅から私が発見したのは、〝金魚のフン〟。

こうして書き出してみると、片隅にありそうなモノでちょうどいい(なにがちょうどいいのか…)。

私が小学生の頃のこと。

みんなが、あれやりたい!これやりたい!と言ってるとき、私はなにかやりたいということがなくて、よくわからなくて、誰かの後ろにくっついていった。いつも誰かにどこかにくっついていって、それで安心した。

私が安心しているとき、男子が放つ言葉が耳に入った。

「お前、金魚のフンだな。」

その時は顔が真っ赤になった気がする。

大人になった今、まぁ、なんてことを!と思いつつ、同時に、まさにそうだった!とも思う。

当時小学生がそんなに使い慣れていた言葉とは思えない。
覚えて間もないであろう言葉を使いたくなるときってあるものだ。

〝金魚のフン〟

小学生が口にするには十分すぎるシチュエーションだったに違いない。

なんてことない!って叫べる

金魚のフン、とまでいかなくても、私は自分がどうしたいか?がよくわからない時期はとても長かった。

自分はなぜそうなのか?

子どもの私には、家庭環境にその一因があることなんて到底わからなかった。

興味関心そしてやる気の芽がちょっと出てはつぶされる。
そんなことが親という最も身近な存在によって繰り返されている…なんて、思いもしなかった。

なにかやりたいなんて思わないほうがいい、と繰り返された学びは、他のどんな学びよりも刺激が強くて、しっかり私の中に刻まれた。
大人になってもしばらく私の生きグセになったと思う。

そして今の私。
頭の片隅の〝金魚のフン〟のことを、こんな風に語れるようになった。

これまで文字にすることなんて到底出来なかった。
語ろうとするとき、自分が育った家庭のことが必ずセットになるから。

そして今。こうして語ってみると、なんてことはない。

なんてことない!

そう叫ぶことが出来るようになっているからだろう。
もはや片隅に追いやることなく、正面から叫ぶことが出来る。

私の頭の片隅にはきっとまだまだいろんなものがあるのだろう。

そのトキになれば、語れる。語りたくなる。
そうして自分のリズムを取り戻すことのほうが大切って思う。

だから、無理に見よう、語ろうとしなくていい。

当事者としても、支援者としても、大事にしたいこと。

自分を見失わない。
焦らず自分を取り戻す。


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