自己観察は思いやり
最近またnote記事が書けなくなっている。
いや、正確にいうと、書き始めるとどんどん広がっていって止まらなくなって…まとめられず記事に出来ない…(まとめる力もない…汗)。
前にも書けないときがあった。
こういうときは、この状況そのものを記事にする、に限る(苦笑)。
なんで書き始めて止まらず広がっていく、なんてことになるの?
自分に問いかけていたら、少しして答えらしきものが出てきた。
自分を観察する機会が増えている。
観察してわかることが増えている。
そう。確かに。
自分を見つめそして発見することが増えているのだ。
かつて周りばかり見ていた私。
対人援助という仕事柄、目の前にいる支援を求める人のことはよく観察してきた。
仕事じゃなくても、周りの人の言動やら顔色やら、無意識レベルからかなりその様子を窺っていたと思う。
そんな私が、自分自身のこともよく見るようになってきているのだ。
見なくちゃっていうのでもない。なんとなく自然に見るようになっている。
自分を観察するということ。
ただ興味本位とか気になるとかっていうのとも違う…。。
そう、言ってみれば、ある種の自分への思いやり。
今流行りの言葉だと、〝コンパッション〟のようなものが根っこにありそうだ。
かつて他人と自分を見るバランスがあまりにも悪かった。
そのことにいい加減してから気づいた。
自分だって見てほしいよね。
周りばかり見ていないでよ。
私の中に、そう言いたい私がいる。それを自然とキャッチしている。
少しずつでいい。
偏ったバランスを変えていこう。
整えていこう。
周りを見てばかりの連続で負荷がかかってきた体を労るかのように、ゆっくりと丁寧に自分を観察していく。
そしてその観察した様子を書き出そうとする。
時々それが止まらなくなる。
そう考えると、まとまった記事をうまく書けない状況って、だから困るって話でもなかった。
自分癒しとか自己成長の途中にいて起こっていることのひとつに過ぎなかった。
また自分にダメ出しするところだったかもしれない。
うん、少なくとも今日の記事は広がらなかった(笑)。
めでたしめでたし🎵