〝私は人畜無害〟への違和感
自分を飾る言葉たち
自分と向き合う、とよくnoteに書いている。
基本的にこのnoteは、自分と向き合うために書いている。
自分と向き合うって?
私にとって自分と向き合うとは、自分の内側を感じること、それをしっかり受け止めること。
だから、言語になる前の段階をかなり意識している。
なぜなら…
私が私を表現するときにこれまで使ってきた言語表現の大部分は、あまり自分と向き合ってなかったころの私が選択した言葉たちだ。
だから、中にはドンピシャの表現もあるかもしれないけれど、なんとなくしか示せてないような表現とか、実は的外れだったとか、たくさんそんな表現も含まれているだろうと思うのだ。
これを自分の住まいの光景に例えるなら…
毎日の見慣れた自分の家。
室内にはいろんなものが飾られている。
当時周りで流行っていた影響からか、自分でも好きだと思って飾っていたポスターや置物。
それが突然ある日…
なんでこれをずっと飾ってきたんだろう?
昨日まで気にも留めていなかった置物やら絵を、ある朝起きて見た時、ふとそんな風に思うように、最近の私は、これまで自分が何気なく使ってきた言葉の対して言いようのない違和感を感じることが増えてきた。
この違和感をどうにかしたい。
自分と向き合ってきたのもそんな思いからだ。
先日も、日常会話の最中、突如としてそんな違和感を抱えることとなった。
いつもの〝人畜無害〟が寂しい
知り合って間もない人に、先日自分のことを話す機会があった。
話している途中、
〝私は人畜無害だから〟
そんな表現が口から出た。
自然と出た。
私はいわゆる、子供や動物から寄って来られるタイプ。
私自身は犬や猫は嫌いではないけれど、飼った経験がない。
だから決して慣れていないのに、突然お邪魔した家でペットが私の膝に乗ってきたりして、慣れているふりをしたり、そんなゆとりなく固まってしまったり…困ったこと多数…汗。
そんなエピソードを周りに話すと、
不思議!とか、いいねえ!とか、言われることが多い。
なんで?なんで?と聞かれて、私はそんな自分のことを説明するとき、
〝私は人畜無害なんだと思うよ。〟
いつの頃からか、自分のことをそう表現するようになった。
先日はかなり久しぶりにこの動物に好かれるエピソードを話して、人畜無害という表現がほぼ自然と口から出てきたのだった。
話しているときすでに違和感があった。そしてその会話のあと、寂しさがなんとなく自分の中に残っているのを感じた…。
これまでなら、この寂しさが自分に中にあっても、それをしっかり感じ取ったり、ましてやそれを両手で掬い上げて眺めようなんてことはなかった。
でも自分と向き合うことがある程度習慣化してからというもの、気になってしまった。
いい意味で。
何気ない会話のあと味わうにはちょっとそぐわない、寂しいという感じ。
なんだかもやもやした。
過去にも書いたもやもやの可能性。
今の私は、いつだってもやもやウェルカムだ。
この寂しさがなんなのか?
私はその正体を知りたくなった。
私の内側の模様替え
人畜無害。
改めてその意味を確認すると、
私が言いたいことはこの言葉に確かに含まれている、と思う。
でも…
無害というのは害がないということ。否定型だ。
どうも最近の私は、何かすでにあるものを否定する表現をあまり好まない。
きっと、何かを見出したくて、何かにつけ、発見ということに興味関心がいっているからだ。
何かを否定することは自分主導とか自分発信ではなく、基本的に受け身なアクションだと思う。
実際、人畜無害という表現はやや侮蔑的に使われることもあって、そもそも決して褒め言葉とは言えない。
否定を含む、時にやや侮蔑的な表現〝人畜無害〟
今までなんの気無しに、ちょっと謙虚な意味も込めて使ってきた自分を説明するときの表現だけど、なんだか寂しい。
これを他に置き換えられないだろうか?
受け身ではなく、自分から発想して表現したい。
そうしたら寂しさが減る気がする…。
そんな気持ちが湧いてきた。
色んな人や生き物に〝ニュートラル〟〝中立〟とかどうだろう?
頭に浮かんだこの2つの表現。
自分が大事にしている価値も表していて、自分を説明するときに使うなら、少なくとも私にとってはちょっとした褒め言葉かもしれない。
これからはこの表現でいってみようか?
確かに、また同じようなシチュエーションと出くわしたとき、真っ先に浮かぶ言葉は、やっぱり〝人畜無害〟なのかも。
それはすでに言い慣れているから。
でも、もしひとこと口から出る前に一呼吸おいたなら…
きっと〝ニュートラル〟とか〝中立〟だから、って言えるかも。
次の機会、どうなるか楽しみにしてみよう。
そうイメージしていたら、私の中の寂しさはどこかに消えていった。
寂しさって、しっかり一緒にいると、寂しくなくなって消えていく。
自分の中に見つけた〝人畜無害〟にくっついていた小さな寂しさを、見て見ぬふりしなくてよかった。
こうして私は、〝人畜無害〟っていう、長年私を飾ってきた言葉のひとつをいま手放していく。
以前から飾られてきた、違和感や寂しさを生む言葉たちは、きっとまだまだ私の内側に残されたままだ。
これからも少しずつ、私の中の世界を自分にとってよりしっくりくるものに模様替えしていきたい。
自分の内側の風景も模様替え出来るって最近発見した日。
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