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「誰かが好きな本」の棚
誰かといっしょにお酒を飲むといつも、ほぼ例外なくいつも、好きなものについて語りあうことに終始する。
「一番好きな映画は?」「うわ、それ訊きます?」などの定型の会話は一旦交わしておくほうが、やはりよい。「人生で大切な音楽」について尋ねることも、もちろん欠かせない。
同様に、本についても話さなければならない。互いに頭に思い浮かべた自宅の本棚からお気に入りの一冊を抜き出して交換しあうのはおもしろい。足元のかごに避難させたショルダーバッグから今持ち歩いている文庫本をじゃんと取り出すのも、また趣深い。
好きなもののことならば、話すのも聞くのも楽しくて仕方がない。その日も、当然のように時間はあっという間に過ぎていった。弱いなりにたくさん飲んだビールとウイスキーの代金を支払い、へたな笑顔で「おいしかったです」などと言い残して店を後にする。ほてった頬に冷たい空気が気持ちいい。もう夜も更けようとしているというのに、街はにぎやかだ。薄暗い路地を向こう側からこちら側へふらりふらりと歩いてくるふたりは、好きなものの話を交わしただろうか。外へ突き出した寒そうな席で日本酒を注ぎあっているよたりは、好きなものの話をぶつけあっている最中だろうか。駅に向かってゆっくり歩き出したぼくらは、好きなものの話をまだやめられずにいた。
辻を二度左に折れれば駅が見えてくる。道端にぺたりと座った老人が、ぼろぼろのギターを爪弾きながらしわがれた小さな声でブルースを歌っている。首から手書きの看板をぶら下げて退屈そうに立っている女性の前を、ぼくらはうつむいたまま通り過ぎる。改札を抜ける君の背中を見送ったあと、ぼくはひとり、今来た道をひき返した。
隙あらば蛇行しようとする両の足をできうる限りなだめ、鼻で深呼吸しながら少しずつ息を整える。精一杯のしらふを装ったぼくは、人に体をぶつけないよう気をつけながらゆっくりと、開け放たれた店内へ歩を進めていく。
このいかれた街・東京には、夜中まで営業している書店がある——他の街にもあるかもしれない、街なんてどこもいかれているから。
平生に増してきょろきょろきょろきょろとあちこちへ目をやりながら、脳内では数分前の会話が再放送されていた。少し赤らんだぼくの顔の正面できらきらと輝く少し赤らんだ両目、そこから数センチ下でせわしなく動く大きな穴が拡張した喉の振動が、うきうきとしたリズムに乗せて伝えてくれた一編の小説。家を出る前は題名しか知らなかったフランスの恋愛小説。今は、もう少し知っている。君がそれを好きだということを知っている。とても不思議で儚くて、美しい作品だということを知っている。
君の嬉しそうな顔や声を思い出しながら、まずは翻訳の文庫とは別の棚に並ぶ背表紙を順に眺めていく。装丁やタイトルの気になった本をそろりとめくって棚に戻す。まためくっては戻す。ときどき戻さずに、左手に持ったままにする。目的の棚に辿り着く頃には、大小四冊の本が重なっていた。もちろん最後には君の好きな本をその上に乗せて、いそいそとレジへ向かう。本を扱う店員さんの手元は美しい。重なった裸の本を受け取ると、店名の入った栞を束から一枚抜き、一番上に乗っかった文庫本の最初のページに挟んだ。
帰ったら、少し読んでから寝ようと思った。
——今では、ぼくもこの作品が大好きだ。酔っぱらって誰かに話すことだってある。もしかしたら、君の表現を借りてしまっているかもしれない。あれからもう会うこともなくなってしまったけれど、読み返すたびに君のことを思い出す。
この部屋の本棚には、そんなふうにして出会った「誰かが好きな本」が雑然と並ぶ、どことなくこの街に似た一画がある。小説やエッセイに、漫画や絵本や写真集も混じる一画。その一冊一冊に、あの人やこの人の少し照れくさそうな笑顔が重なることを、ぼくは愛おしく思う。