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DESPERADO「絶望」からRESIGNATION「諦念」へ

「あまちゃんって、『Desperado』が似合うよね」

Eaglesの名曲「Desperado」。
ピアノが基調のシンプルな演奏と、絞り出すような、少しかすれたような歌声が印象的なバラード。
この曲を薦める彼女の言葉は、彼女が考える以上に真実だった。

Desperado=「絶望者」

この曲名、「ならず者」と訳されることが多い。

もちろん意味としては正しい。

しかしdesperadoとは語源的にはdespair「絶望する」と関係のある言葉で、「絶望する人」というのがコアになる意味である。
深い絶望に追い込まれ、失うものはもはや何もない男が自暴自棄になる。そんなイメージだ。

歴史的には西部のならず者に使う表現だったらしい。イメージとしてはセルジオ・レオーネなどのマカロニ・ウエスタンに出てくる、過去を背負った流れ者の主人公。
時代は下るが、メキシコという「現代のフロンティア」が舞台の映画「デスペラード」の主人公(アントニオ・バンデラス)は、タイトルの通りdesperadoだった。
映画産業の盛んな西部の街カリフォルニアを拠点とするイーグルスの歌が、これらと多少なりインスパイアし合っている可能性はあるかもしれない。

あるいは別なdesperadoを想像してもいい。
シェイクスピアなら「マクベス」や「リチャード三世」の後半の、何もかもから見捨てられてもがき悶える最期。
あるいは父たる神に「捨てられた」ルシファーの神への反抗。
個人的には「ローゼンメイデン」の水銀燈がどうしても頭から離れない(彼女の場合はdesperadaとでも呼ぶべきか)

「どこでもない」場所の、「誰でもない」私

フェンスの上に跨がっている。
最初は「こちら」から「あちら」へ越えていきたかった。
しかし気付いた。「こちら」にも「あちら」にも欲しいものはないと。
しかしそれでも、手に入らないものを求め続けている。
もはや降りることはできない。「こちら」にも「あちら」にも帰る場所はなく、双方から迫る追っ手に捕まるわけにもいかない。
地に足のつかない、「どこでもない」場所にいる私には、冬も夏も、夜も昼も、高いも低いもない。
私はもはや、「誰でもない」。

Resignation「諦念」と、世界の受け入れ

resignationという概念がある。日本語にすると「諦念」とか「諦観」とか物々しい訳になるが、「ありのままの世界を受け入れる」というと輪郭がはっきりするだろうか。
例えば物語のラスト、陰謀との対決直前のハムレット。燕一羽が墜ちるのにも摂理がある。何がいつ起こってもいいよう心の準備をするのが肝要だ。あるがままにさせておくしかない。

「絶望」から「諦念」に変わる。
フェンスの上から降り、門を開け放つ。
「こちら」と「あちら」から差し伸べられる手を受け入れる。それは雨かもしれないし、虹かもしれない。それでも世界のあるがままを受け入れてみよう。
そして誰かの愛を受け入れる余地を持つ。

その時初めて私は世界に「居場所」を取り戻し、その中で生きる「私」も取り戻すのだ。

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