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偽りの「親子愛」と機能不全家族

夜7時頃になると私は憂鬱だった。
自宅車庫から、聞き慣れた音がする。
それを合図に私はリビングのドアの前に立つ。

カチャ、と玄関が開く音がするのを息を殺して待つ。
玄関の扉が開き、父が入ってくる。
三和土に、カバンを置く音。

今だ。

私はリビングから勢いよく飛び出し、
数メートルの廊下を走り抜け、
父にジャンプして抱きつく。
「おかえりなさい」
の言葉と共に。
笑顔は忘れてはならない。
父から空の弁当箱を受け取り、台所に居る母の元へ走って帰る。

これは私に課された「やらなければならない」ことであり、絶対に遂行しなければならない。

我が家にはたくさんの決まり事があった。

帰宅した父は、テレビがよく見える位置に座り、新聞を読んでいた。
その間に母と姉と私で急いで食卓に並べる。

お刺身は必ず父の方向へ向けて置くこと。
「いただきます」と皆で言ったあと、まず父が箸をつける前に食べてはならない。
「茶」「飯」と言われたら母は弾かれたように立ち上がり、お代わりやその他要求されたものを台所へ取りに行く。
食後ももちろん父は微動だにしない。

母には、食卓に席がなかった。
無いというのは語弊があるが、いわゆる「お誕生日席」の位置で一番台所に近い場所。足を崩しているところもほとんど見た事がなかった。すぐ父の号令に反応するためだ。

私はそれが普通ではない事に気が付かなかった。

父は「周りから見て理想の家族」を作ろうとしていたのだと、今になって思う。

ことある事に家族写真を撮らされた。
笑顔がダメだと怒られ続けた私は、「良い笑顔」の作り方が分からなくなってしまい、一定期間の過去のアルバムで私は目を全力で細め歯をむき出しにしている。もちろん怒られたが、それからどうしたのか覚えていない。

休みの日には父と二人でキャッチボールをした。
上手く取れずに怒られ続けた。

夏休みや冬休みの宿題で読書感想文、書き初めに関しては日付が変わろうと関係なく父が満足するものが出来上がるまで泣きながらやり直しをした。
金賞を取った自分の作品を見ても何の嬉しさもなかった。

クリスマスには父と窓にイルミネーションを飾り、リースを手作りし、近所の人達から褒められて父は嬉しそうだった。私は棘が刺さって傷だらけの手になるこのイベントはいつ無くなるのだろうかと考えていた。

父は周囲の人から母や私たち姉妹のことを聞かれると、
「うちは女3人で男が僕ひとりなんでね、立場が弱いんですよ」
と笑って答えていたが、現実は真逆だった。
外面がとてもいい父は知り合いも多く、
「いいお父さんで幸せね」
と声をかけられるたび張り付いた笑顔を見せることしか出来なかった。

私はこの家族ごっこが大嫌いだった。
小さい頃からずっと父が居ない世界を妄想し逃げた。

おままごとで遊ぶ時周りの子達が
「わたしはママの役!」
「わたしはおねえちゃん!」
などと次々言う中で私はいつも犬や猫役を望んだ。

リカちゃん人形の遊び方が分からなかった。
全て服を脱がし髪の毛を切って怒られた。

動物のぬいぐるみしか好きになれなかった。
人間の形をしたモノの何が楽しいのか理解できなかった。

実家にいた頃の記憶はほとんどなく、そして断片的であり、さらには思い出す映像全てが三人称目線になっている。
自分の記憶なのに、私の後頭部を私が見下ろす形で全ての事柄が流れていく。

地元を離れ独りで暮らし、この家族ごっこから解放されてから、たくさんの「普通の家族」を見た。
衝撃だった。

そして私は今時点で私には「普通の家族」を形成することが出来ないとわかっている。

どんなに本を読んでも映画を見ても他人の家に泊まっても、幸せな家庭というものに感情移入ができない。

いつかこの出口の見えない暗闇から脱出できるのか、正直諦め気味だけれど。いつか。小さじ1杯分の期待くらいは残して、生きていく。

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