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文を綴るという事


私にとって、文章を書くという
この行為が一体どういう意味を持つのか
今年の数ヶ月で改めてよく分かった。

文字を綴る事は自分の思いの丈を
外の世界へ出すことと同じで浄化や告白のようなものだ。

書いている間は過去を想って涙を流し切なくなることもあるが、書き終えればそれはもう
とても清々しい気持ちになる

特に誰かへの気持ちが溢れて止まらない時、
そういう時には、自分でも驚くほどよく書ける


しかしながら、いざ自分で物語を生成しようと思った時や自分のことを書こうと試みる時、
それはとても難しい事のように思う

そして今、自分のことを書いているこの状況ですら、大変悩ましく疎ましささえ感じる

そう、私はおそらく、自分のために文章を書くという行為が大変不得意なのである。


読書感想文だってそう、相手へのラブレター
物語へのラブレターだと思えば
いくらだって、第三者が見ても呆れるくらいには書ける自信があるというのに

こうやって、いざ自分と自分の世界の話を文に書き起こそうものなら

それはもう目も当てられないくらいに堅くて滑稽で時代錯誤の文章だ。

でも、それでもいい。評価されなくてもいい。
意味がわからないと言われても、いつかは書かなきゃいけない時が来るのだろう。

ありとあらゆる事象に対する自分のキモチや
今まで見てきた、苦くも甘くて美しいこの世界のこと。

書かずに今生を終えるわけにはいかないと
心の中で、私の中の誰かが云う。

折れそうな心を奮い立たせている。
週末は楽しみつつも、今年の計画を練るつもりだ。
ナニを極めるのか、捨てるのか、全部抱えていくのか。

実は悲しいことに、文章を書くコンテストに落ちてしまった。それが先月の出来事。


思いのほかひどく落ち込み過ぎて、自分でもびっくりした。
どうやって生きていきたいのか、分からなくなった。

ワタシいつからそんな風に思うようになったの?
文章が上手いだなんていつから錯覚していたの、


本業で昨年から一緒に働いてるプロの書き手の同僚には、度重なる文の誤りの指摘をされる日々。


歴代の上司から酷評される私の文章は一体どこがダメなのだろうか

とても悩んで、どんなに書いても上手くいかず時々悔しくて静かにひとりで泣く。

もちろんダメなところはわかってる、
全体的に雑なのだ、興味が持てないことに対して
熱量を持ち続けることができないのである
だから文も半端になってしまうのだ

いやでも、褒められた事のある文章も
意味がわからないって言われてるよ?
やっぱり行間は無くしたほうがいいんじゃないの

文と文の間の空白に意味を持たせる意味なんてある?

そうやって自問自答を繰り返して
泣いては眺めて嫌気がさす日々に
少しだけ分かったことがある


それは私にとって文を綴るという行為は
感情の浄化であり
それ以上でもそれ以下でもない

他人に評価される為に書く文章は
驚くほどに下手だが

誰かのことを想い綴る、この偽りのないキモチは
たぶんこの世界の誰かのココロに届いている。

それだけは分かる。

だから私は文を書くことを辞めないし
これからも続けていく。

コレはきっとワタシのためになることだから。

生きる事と文を書くこと。
どちらもとても下手だけれど、今はそれで良いんだ。

だって、今までもどんなことも少しの力では
普通になれなかったから
人の倍、何倍もの努力をしてここまで生きてきた。

文を綴ることは、きっとワタシの人生で
欠かせないものだ。

そのうち書きたい文章も書けるようになる。
多分ものすごく努力がいるし、
師を見つけた方が早いような気もする。

果たして、この先の人生に
文章は付いてきてくれるのか
不安になる事もたくさんあるね、

それでもね、知ってることがあるよ

文を綴る事をワタシは愛しています

山があったら眺めて登るように
キモチが続いていく限り


ワタシは文章を綴る事を愛すと此処に誓う

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