本を読まないあなたへ
あなたは本を人生で何冊読んできただろうか。
僕は人と比べればそこまで多くの本に触れてこなかった。
高校生までは全くと言っていいほど読まなかった。学校の休み時間に本を読むやつのことを嫌厭していたし、心の中でバカにしていた。
そんなバカだったころの自分への内省を踏まえてこの記事を書こうと思う。
もっとも今回は小説について言及していく。
文学部は時にバカにされる
各大学には必ずと言っていいほど文学部が設立されている。僕が通う立教大学にも文学部はあるがしばしばバカにされているのが実情だ。もちろん文学を読むのが好きで止まずに入学した人はそんな風潮は気にせずに専攻していることだろう。
ただ少しでも自分はなんとなく文学部に入ってしまった人だと思っているならぜひ読んで欲しい。
文学を学ぶということは、高校の国語の授業のように「この時代にはこういう作品があって」というような文学史を暗記するような行為ではない。
そもそも文学とは芸術の1つである。芸術とは作者が言葉では表せない領域にある何かを伝える手段である。
例えば、あなたが恋人に振られてしまったとしよう。もちろん悲しいという感情が芽生えるはずだ。一方で第一志望の就職先に落ちてしまったらどうか。同じく悲しいという感情が芽生える。しかし、この2つの「悲しい」は全く別の感情だろう。だが、日本語には「悲しい」という言葉しかない。悲しいという言葉に修辞的に説明を加えることは可能だろうが、人間の感情の繊細さを言葉のみで表すことは不可能だろう。
そういった複雑な人間の感情や真理を表すもっとも一般的で高度な手段が音楽、絵画、そして文学といった芸術なのだ。
作者が一体なにを伝えたくてこの小説を書いているのか。それを我々読者は感じる必要がある。それを論理的に、ないしは感情的に読み解くことが文学なのだ。
ではその小説というものが我々人間になにをもたらしてくれるのだろうか。
1つは日常生活では絶対に得ることができない「気づき」を与えてくれることである。
僕は大学生になってから初めて小説を読んだ。岸田秀や村上春樹など文庫本をあさって読んでみたが一番のお気に入りは村上龍の「五分後の世界」である。
この作品を読み終えた時には鳥肌が立ったことを憶えている。
内容としては、ポツダム宣言を拒否した日本国が舞台で、主人公は現実の世界からそのパラレルワールド(五分後の世界)に迷い込み、兵士たちと共に行動していく過程で大日本帝国の誇りを取り戻していくというもの。気になる人はぜひ読んで欲しい。
ここでの「気づき」とは、もし日本がアメリカに屈服せずにいたら、戦争を続けていればよかったんじゃないか、ということではない。
我々は日本人であり、日本国という歴史深い国民国家に帰属する誇り高き存在である。なのに、その誇りを捨て国ではなく国民が西洋人が作った規範に飲み込まれているのではないか、というものだ。
こんなことは日常生活では絶対に考えることはできない。それが学びであるし、その気づきからなにを自分が考えるのか。これが文学の楽しさであると思う。
そしてこの気づきは僕のものであり、これからこの作品を読むかもしれないあなたのものではない。あなたはあなたの気づきを全く同じ作品から得ることができる。
つまり、正解は存在しないのだ。なぜなら、小説は事実ではなく嘘なのだから。
もう一つは、心を癒してくれるということだ。
これからの人生どうにもできない怒りや悲しみを抱えることがあるだろう。そんな時に友人や家族に慰められてもなかなかそれが癒えることはない。言葉という表面的なものだから。
しかし、小説は違う。自分の心情に似たものをもつ主人公に自分を同化し、小説によって励まされることが可能であるから。
というものの、僕はまだこういった経験を得られていない。感覚を使って小説を読むということは難しいのかもしれない。なのでざっくりとした説明になってしまった。
この2つが小説を読むことの利点である。
こう聞くと実におもしろく、複雑で高度な領域のものであるように思えないだろうか。僕はこれに気づくのが遅かった。とても後悔している。だからこそ記事を読んでくれたあなたには後悔して欲しくない。
文学部に所属しているなら、こういうことを教えてくれる授業をとったほうが絶対にいいと思う。学科によってさまざまだろうが、必ずあるはずだ。
今日僕はハムレットを読もうとしている。