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17歳が母と二人で被災しました。今だからこそ語らせて欲しい、あの日の真実。

29年前の1995年1月17日、午前5時46分。
淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が発生しました。
神戸市灘区の実家で被災しました。
いま、5時46分。この文章を書き始めています。
今年1月1日能登半島地震が発生しました。被災地の映像を観ながら、1.17の光景と似ている。当時の体感が蘇る、寒さや不安。被災者の方々に自分がオーバーラップする様な感覚で、胸が締め付けられました。自分に出来ることは何かないか?と考えていました。いつもファッションやエシカルのことを記事していますが、今回は番外編ということで私の阪神淡路の被災体験を記します。災害について考えるきっかけとして、またこれからの防災に繋がって頂ければ幸いです。

震災の朝

私は17歳、市営住宅で障害のある母と二人暮らしをしていました。母は国の難病指定を受けた肺の病気で、肺機能が健常者の三分の一ほどしかなく、酸素を摂取する力がたりません。酸素を鼻から通す機械をつけています。家には呼吸器の大きな機械と酸素ボンベ、電動ベッド。
歩くことができないので車イスです。常に100mを走っている状態で、ちょっとした動作で息が上がります、10数分咳が止まらない発作がでる場合もあります。


神戸市:提供 育った街、新在家

そんな中、地震が発生。
初めは寝ぼけて、暗闇で、何がなんだかわかりません。気づくと部屋に敷いていた絨毯が剥がれ布団と一緒に、私が巻き寿司のようにくるまっていました。その布団の上に家具が倒れていたのでケガはありませんでした。
目がまたはっきりと見えず、部屋の明かりがつかない。なんとなくおかしいぞ。とだけが感じ取れます。夢か現実かわからないような寝ぼけた様な感覚、とにかく家の状況を見ようと倒れる机や家具を押しのけながら隣の部屋に寝る母を見に行きました。

母の部屋も同じ様に家具が倒れていましたが、ベッドの位置と倒れた家具がずれており直撃を避けていました。
大丈夫か!と聞いたら返事がなく。一瞬、ヒヤッとしましたが、数秒あいだをあけて声を出し返事をしてくれました。無事でした。

安心してふと窓側に目をやった時の光景が忘れられない。
外は真っ暗、真冬の朝6時くらい。ベランダ越しに赤い炎がユラユラと見えてきました。部屋の天井から垂れ下がる蛍光灯、床には割れた鏡台や壊れた襖のはり。破壊され物が飛び出してしたタンス。私が初めて震災に直面した光景です。

提供:神戸市 育った街 六甲道

外がどうなっているのか?状況判断をしたいと思い。玄関にむかいました。ドアが開きません、この市営住宅自体が傾いており、金属製ドアが歪んだ為に開かないのです。
するとまもなくボンっ!ボンっ!と爆発音が聞こえてきました。それまで静かだったのに、サイレンの音、人が騒ぐ声、かだんだんと聞こえてきました。

あれ、これはヤバいぞ。
自分が経験した事もない何かが起きている。
でも何か?がわからない。
想像がまったくできないのです。

すると、隣の方がドアの外から生きてるかーと声をかけてくれました。あまり喋ったこともない、隣の部屋に住んでいた、怖いおじさん夫婦です。

はい、母がいます、外に出たいです!

そう言うと、台所の格子窓を、通路側からガラスを割り、格子をねじ開けて壊しました。大人1人がどうにか入れるくらいの穴ができました。
すぐに私は母の病気用の携帯できる酸素ボンベをもちました。これが母の命綱です。母と酸素ボンベとだけを抱えおじさんに手伝ってもらいながら、サーカスの火の輪くぐりのような体勢で外にでました。

提供:神戸市 灘区 琵琶町から烏帽子町あたり 住んでいた付近

市営住宅の自階のエントランスに出て、上から街並みを見たときに、やっと状況がわかりました。その9階からみた景色は、テレビや映画でみた戦後の日本の焼け野原と同じに映りました。
私が住む灘区は古いアパートや木造の建物が多い地域。概ね木造の建物は燃えているように感じました、火災があちらこちらで発生している。するとまもなく2号線のガソリンスタンドが爆破、私がいる9階にまでほのかに暑さを感じます。次に隣に出身中学校があったのですが、理科室あたりからボンっ!と音がして、火の気がおこり燃え始めまはさた。木の臭い匂いや焦げの匂いは忘れません。
ちなみに、倒壊、火災を含めて、私の卒業した小学校、中学校、高校は全壊です。全て建て直し。今となっては、どの校舎も変わってしまい全く思い入れのないさまになっています。

提供:神戸市 当時通っていた高校


母をおんぶし、酸素ボンベを抱え階段で1階おりました。そうして、住宅のすぐ隣にある中学校に無事に避難することができました。

避難所に着くなり母をおいて私は外にでます。何故か真っ先に仲間の安否を気にしたのを覚えています。友達や彼女の安否を確かめにバイクでみんなの家をまわりました。新在家の幼なじみの親友は家族無事でした、灘区で有名な漬物屋さんのお店の駐車場で家族で布団にくるまっていました。
次に六甲道駅側の琵琶町にある彼女の家にむかいました。倒壊せずありました。家族もみんな無事でした。彼女はショックと恐怖で部屋にこもっていました。彼女のお母さんと彼女には大丈夫や頑張れ!とだけ話して、すぐに他を周りました。友達全員には会えませんでしたが、街を回る間に、だんだんと被害の状況がみえてきました。これまで見てきた建物が倒れている、新在家や六甲道の駅、アルバイト先の新在家ボウル、壁が剥がれ倒壊、ローソンはものを強奪され空っぽに。自販機は中身だけとられてお金が地面に散らばっている。あちらこちらで火事が起きていて、アパートや車がそのままの姿で燃えている。信号は止まり、バイクはノーヘル、原付は二人乗り、警察も機能せず。
今思えば、気が動転していたのだと思います。何かをしないといけない。でも何を優先してやるべきなのか?判断がつかない状態だったと思います。だから、せめて自分の中の不安な材料を消したい、友達は大丈夫か?との気持ちを優先したのかもしれません。

提供:神戸市 灘区 琵琶町から烏帽子町あたり 住んでいた付近

避難所

避難はできたのだけど、この中学校の避難所はすぐにでました。
理由は疎外感。
母の病気です、母は病気のせいでどうしても咳をします。
周りの避難されている方が嫌な態度で接してきました。腫れ物を扱うような、すこし隔離した場所に母を置かれていました。その場所で誰が統制を取っているのかもわからず(ないのかも)ただそれぞれが体育館に段ボールでバリケードみたいなのを作っている状態。明らかに母の周りには誰もいない、ポツンとしているよいに私には見えました。配給もりんご4分の1しかありませんでした。(他の人も同じかもですが)
高齢者やお子様がいるご家庭は不安になると思います、いまだと冷静にわかります。もちろん咳で移らない病気なんですが、もうそれを理解してもらおうとかの精神的なキャパは私にはなく、まだ子供だった私には状況を素直に受け入れることができませんでした。加えて短気な性格もあり、こんな場所は出ようや!と啖呵を切って避難所を出ました。避難所には様々の生活背景の方々がいます。私の母のように健常者以外の被災者のケアは大切だと思います。

提供:神戸市 東灘区天井川

東灘の隣町に住む祖母の市営高齢者住宅の家に避難することにしました。湾岸に近い場所にあり当たり一帯が埋め立て地のため、液状化現象が起きていました。そのおかげで、地面はドロドロの水浸しではありましたが、縦揺れではなく横揺れをするために建物に受けるダメージが弱くなり比較的、家屋は無事なところがおおかった地域です。バイクで確認しにいくと、祖母は呑気に洗濯物を干していました。
交通手段はないので歩いて移動しました。よくニュース映像に映る阪神高速が倒壊した場所を通過し、活断層が何層も見えるほど道が盛り上がってる国道をさけながら歩いていき、病気の母と一緒なので休み休みしながら隣の区まで、丸一日ほど時間をかけたと思います。
バイクがあったのが助かりました。バイクは緊急時に活躍すると思います。道がめちゃくちゃだと車は無機能。自転車はパンクします。原付でもいいからバイクが一台あれば道なき細いような道でもフレキシブルは動きができます。なんせ緊急時は情報収集が大切です、スマホもない時代です、主な情報源はラジオ。ですが私たちは普段からラジオを聞く習慣はなく被災直後は持ち歩いていません。そうなると情報収集には消防や自治体のテントに直接行って聞かないといといけません。こまめな移動対応にバイクは便利でした。
実際に先にバイクで祖母の住まいや地域の状況をみにいき、道の状況を確認して、母を連れて行く判断をしました。

記憶喪失

緊急時は通常とは違う事故も起こります。
まさか、まさか、の注意が必要です。
私が怪我をしたエピソードです。病院を探すためにバイクで走っていた時のこと、バイクに乗ったまま垂れ下がる電線に首がひっかかりました。電柱が折り曲がり徒競走のテープのように胸元の位置くらいまでに垂れ下がる電線が見えなかったんです。記憶がないのでわかりませんが、おそらくそのままツッコミ吹っ飛んだのだと予測しています。
首は鞭打ちに頭を数針縫い、気を失い、1日記憶喪失になる怪我でした。いまも記憶はありません。病院で恐らく何時間もぼーってしていました。頭も縫ってはいますが、包帯はなく首にコルセットみたいなのだけ巻いてます。明らかに病院はパニックになっていました。みんな私服で看護師かだれかわからない状況。
すると40代くらいの女性が泣きながら私にあなたは生きなさい!と声をかけてくれました。私は自分が誰かとも分からず、名前も何もわからない。なぜここにいるのかも、ここがどこかもわからない。その女性は、私の免許証を見つけ私の手を引いて、家の近くまで連れていってくれました。その途中、偶然に事故現場を横切ったのです。その瞬間、まさにフラッシュバック。全てを思い出しました。バイクにはキーを刺したままで残っていました。そのまま置いていてくれた人がいたのです。もう今となっては、その女性もバイクを置いてくれた人も誰かわからないのですが、感謝しかないです、本当にありがとうございます。その後、避難所に戻ると、もうまる二日たった状態の行方不明の私。もう母は私が死んだものと思っていたようです。

提供:神戸市 桜口交差点 事故現場付近

17歳の大黒柱

避難生活は、私が祖母と病気の母、一緒に避難した小学生の従兄弟を守る必要性がありました。1番は食糧を得るのが私の仕事です。朝の自衛隊からの水の配給の受け取りこれはポリタンクです。重い。高齢者住宅にいたので、自宅避難の方で独り身のおばあちゃんがいました。私はその方の水や食糧のお手伝いをしていました。一緒に配給してもらう様にしていました。

提供:神戸市 水を貰いにいく様子

ありがたいことに食糧の不満はありませんでした。首の怪我は依然ひどくて何週間はまともな声もでずで不便ではありましたが、鞭打ち姿で配給所に弁当をもらいにいくと、その悲惨な姿にみなさん心配していただいて、沢山の方々に労いの声をかけてもらい。これを持っていけ、あれを持っていけと親切にしていただきました。そうはいっても、だんだん贅沢になっていき、主食以外の甘いものに飢えてきます。甘いものやジュース缶が貰えたときは小学生の従兄弟と喜んだ記憶があります。

提供:神戸市 お店の様子、配給のイメージもこんな感じ

しんどいこと嬉しいこと

個人的に、しんどい思い出はお風呂。水がない、風呂に入れないのが、自分はしんどかったです。水のいらないシャンプー、、沢山貰うのですが気持ち良くはない。身体中は痒いし息つく感じがしないというか。緊急が続く中、少しでも気を休める時間が必要でした。そういう意味でまお風呂のありがたみを改めて感じました。
自転車と電車を乗り継ぎながら何時間もかけて銭湯にいく動きがでてきました。友達に誘われたように思います。路線が復旧している駅までどうにか自転車などで向かい、そこから電車に乗っていくのです。甲子園とか尼崎とかその辺りだった記憶があります。母の様な障害がある場合や祖母の様な高齢者。その場合は自力で自転車で、とはなりません。母は自分の病気を気にして公衆的な場所は避けていました。私も自分だけという気にはなれず、銭湯には入りにいきませんでした。

提供:神戸市 灘区 八幡 バスに並ぶ様子

嬉しかった思い出です。
魚崎中学校にカナダから物資が届きました。ヘリコプターでやってきてあっという間にドームをつくり衣類を提供してくれました。(能登の支援で服がいいとか物資が何がいいのか私には意見はありません)
寒い時期に、きのみきのままで出てきた私達には防寒、靴は必要でした。当時、直ぐに余震に対応し外に飛び出せる様にずっと靴を履いたまま寝ていました。ずっと着たきりスズメ。
だから新しい服を着れるのはありがたい気持ちでした。中でもハーゲンダッツのジャンパー、スポーツジャージは助かりました。ハーゲンの冷凍庫作業用のジャンパーだと思うのですが、防寒力が高く暖かく、ジャージは動きやすくそのまま寝巻きにもなる。

画像荒いですが、親友の潰れた家のまえで、親友とその兄弟と。

そして、何よりも嬉しかったのは、電気の復旧です。

そう、電気がついた日。

パッ!と急に灯りがつきました。
蛍光灯がいつついても良いように電源は常にスイッチオンにしていました。
思わずみんなで、わーっと叫びました。
電灯がついた明るさ以上に明るい未来を感じるような、日常がかえってきたような。表現しようもない、なんとも言えない感情でした。復旧されてきている!と少なくとも気持ちが前を向いたのです。

それぞれの被災

まだ他にも経験談や感想はあるのですが、ひとまずこれが私の被災経験です。あくまで私が見てきた経験であり、主観です。被災者の方々みなさんのそれぞれの別の感じ方やストーリーがあると思います。

私にも亡くした友達がいます、家族を亡くした友達もいます。自分にとっての1.17はどんな経験なのか一言では言えません、わかりません。犠牲者の方々の分を背負ってまでとも言えません。

ただ素直に阪神淡路大震災から助かった命を大切にしたいとは思います。そして次世代とともに震災を語り継ぐこと。悲惨な状況を伝えあおる気もなく、美談を語るつもりもありません。1.17のあの日、自分がみたまま、感じたままを記します。その個人的な体験が少しでも、冒頭に申し上げた様にこれからの防災に繋がれば幸いです。

提供:神戸市 復興が進み新しくなった六甲道駅

神戸は頑張ろうKOBEを合言葉に復興してきました。
必ず街も人も復興します。
「頑張ろう!石川 能登。」
復興を信じて祈っています。そしてこの度の能登半島地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。


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