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短編小説「窓辺の約束」

彼女の病室は、陽がよく差し込む特別室だった。

窓辺からは、大きな木々の葉が揺れるのがよく見えて、その緑色は光を受けてきらきらと輝いていた。遠くから微かに聞こえる小鳥のさえずりだけが、時間の止まった空間に響いていた。

最低限の、寝具と医療機器くらいしかない室内。

その寂しさを浴びるたびに、胸を突き刺すような、永遠と断絶を感じる。

楓はいつものように、ベッドの上で窓の外を見つめていた。

その横顔は白く、どこか透き通っていて、存在感は希薄だ。彼女は、僕の足音を聞くとゆっくりと振り返り、いつものように微笑んだ。弱々しいけれど、柔らかい笑顔だ。

「今日も来てくれたんだね」

「もちろん。ほら、君の好きな紅茶のタルト。この前言った通り、買ってきたよ」

僕は紙袋を彼女に見せた。袋の中身は、楓が入院する前から、好んで食べていたものだ。

楓はそれをちらりと見て、少しだけ眉を下げた。

「ありがとう。でもね…、たぶん、もう食べられないかも」

その一言に、僕の胸はぎゅっと締め付けられる。それでも努めて明るく振る舞った。

「そんなこと言うなよ。元気になったらまた一緒にカフェに行こうって言ったじゃないか」

「……そうだね。そうなったらいいな」

楓は、どこか遠い夢を見ているような声で答えた。その手は力なくベッドの上に置かれていた。僕はその手をそっと握る。彼女の温もりはまだここにある。

それだけで、僕は希望を失わずにいられた。


楓がこの病室に運ばれることになった原因――それは、あの事故だった。

僕たちが共通の友人たちと一緒に行ったキャンプでの出来事だ。
山道は前日の大雨で土壌が緩んでいた。今振り返れば、その時点で中止すればよかったのだと思う。
ぬかるんだ山道を歩いている最中、足元を何度か取られそうになる場面があった。その度に後ろを歩く楓を振り返って確認していたが、危なげなくついてきていた。
だから予断があったのだろう。

突然、彼女が一歩を踏み出した足元の地面が崩れた。僕は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。

崩落した先は深く、手を離せばどこまで落ちるか分からなかった。
"大丈夫だ" と自分に言い聞かせるように叫んだ僕だったが、思った以上に急で、僕の足も滑りそうになる。
楓は小さな声で何かを言った。
恐怖と混乱の中で、聞き取ることができなかった。ただ彼女の手を強く握り続けた。死んでも離すわけにはいかなかった。
それなのに限界は唐突に来て。

次の瞬間、彼女の手が滑り、掴む力が抜けていく。

楓の身体は斜面を滑り落ち、何度か岩にぶつかりながら転がり、木々の間に消えていった。

息を切らしながら下へ駆け降りた僕が見つけたのは、傷だらけで、動かない楓の姿だった。彼女は意識が朦朧としているようで、辛うじて目を開けた。「痛い……お腹が……」楓が弱々しく呟く。見ると、彼女の腹部に大きな痣ができており、吐息が荒い。

救助隊が到着したとき、彼女はまだ意識があったが、病院に運ばれるまでの間、「寒い……」と繰り返し呟いていた。

その声が今も耳に残って消えない。


奇跡的に命を取り留めた楓だが、彼女の体は二度と元通りにはならなかった。そんな彼女の病室に、僕は事故以来、毎日のように通い続けていた。
そこには罪悪感も、彼女への思いも、後悔も、すべてが入り混じっていて。
自分の本心なんて、何も分からなくなっていた。


ある日、楓は僕に一通の封筒を差し出した。封筒には「遺書」とだけ書かれている。彼女の癖のある丸みを帯びているが、震えた字だった。無理して書いたのだろう。

「……これ、僕に?」

「うん。私が死んだら読んでね。それまでは開けちゃダメだよ」
そう話す彼女の目は真っすぐだった。

「そんなこと言うなよ」
僕は笑顔を作りながらそう言ったが、楓は静かに首を振った。

「お願いだから、約束して。絶対に、死ぬまで開けないで」
その目は強く、揺るぎない意思が込められていた。僕は仕方なく頷くしかなかった。



それから数日、僕はその封筒を開けたい衝動と戦った。中に何が書かれているのか、彼女の最後の言葉を知りたいという気持ちが募る一方で、彼女との約束を破ることへの罪悪感がそれを押しとどめた。

だが、夜中に一人で封筒を手にしているとき、ついに我慢できなくなった。
もう楽になりたかったのだ。
手を離したことの恨みが書かれていてもいいし、どんなになじられても良かった。どんな形であれ、赦しが欲しかった。

僕は手が震えるのを抑えながら、そっと封筒を開けた。

中には便箋と、一枚の写真が入っていた。写真は事故の直前に撮られたもので、笑顔の僕と楓が写っていた。

便箋に並ぶ文字を読んでいく。

「読んでくれてありがとう。本当は、この手紙を書こうか悩んだ。
でも、最後くらいは自分の本心を伝えたかった。

私、事故のとき、君が手を離したのを知ってたよ。憶えていないふりをしてたけど、全部わかってた。
でも、それを責める気にはなれなかった。君が毎日来てくれることで、私はどれだけ救われたかわからない。だから、もう自分を責めないでね。

それと、もう一つだけ伝えたかったことがあるの。
私、ずっと君のことが好きだったよ。でも、今の私はそれを直接言える立場じゃないから、手紙に書くだけにしておくね。
重荷にはなりたくないから、見なかったことにしてもいいの。ただ伝えたかっただけだから。

最後に一つだけお願い。どうか、生きて。私の分まで。
君が幸せになることが、私の願いだから」

僕は手紙を握りしめたまま、崩れるようにその場に座り込んだ。涙が止まらなかった。楓がすべてを知りながら許してくれていたこと、そして、僕を思い続けていたこと。それらが僕の胸に深く突き刺さった。


楓が亡くなったのは、その数日後のことだった。

彼女のいない病室に立つ僕は、窓の外の青い空を見上げた。木々の葉が揺れる様子も、小鳥の囀りも変わらない。簡素な室内も変わらない。
だが、僕にとって、その風景は永遠に変わってしまっていた。

それでも生きていくしかなかった。後悔も、罪も、贖いも、恋慕も、全てをないまぜにした、この感情だけを今は背負っていくしかない。

僕は、病室に背を向け、扉を閉めた。



あとがき:
最後まで読んで頂きありがとうございます!
今回はちょっと読後感を重ためで書いてみました。


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Alpaka
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