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生成AIが創作のルールを変えても、逆に「書くことの意義」は高まっていく

生成AI関係の記事を幾つか書く中で考えていたのは、生成AIって本質的には「ルールブレイカー」なんだろうなということです。

元来あった「創作は人間の手によるもの」という暗黙のルールに対して、それを破壊しつつある側面がどうしてもあるからですね。


文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を作ったり——―そんな人の心を揺り動かすような創作物は長い間、「人にしかできない尊い営み」だと思われてきたわけです。

でも、そうではなくなりつつある。
生成AIは瞬時に文章や画像、音楽を生み出すことで、創作の前提条件を根本から崩しにかかっているわけですね。

なので、創作を「人の領分」として神聖視すればするほどに、AIを使うことに拒否感を感じたり、時にずるさを感じたり、あるいはやるせなさを覚えたりするのだろうなと思ったりします。

これは下記の記事が良い例ですね。
過分にペシミスティックな傾向はありますが、ひとえに翻訳への思い入れの高さ、熱量の大きさが故に、このような痛切な感情の吐露があるわけです。


でも、こうした創作のパラダイムシフト自体は、これまでに何度も起きてきたことでしかないのもまた事実です。
「絵画」に対する「写真」が代表的な例です。
そして、当然ながら、絵画は生き残っている。

だから、「生成AI」に対する「創作全般」もつまるところ同じことです。
人の手による創作ってきっと生き続ける。


もちろん、そこには創作意欲が存在するからですが、そういった衝動や感情だけじゃなくて、歴史を鑑みても創作が消えない理由があるんですよね。

そして、その理由を突き詰めていくと、逆に「書くことの意義」が今まで以上に高まっていくのかもしれないなと思ったので、今回はそんな話をしていきます。




✅写真がもたらしたもの

「今日を限りに絵画は死んだ」という有名な言葉があります。

これは、19世紀の画家であるポーラ・ドラローシュが銀板写真を見たときに発したと言われたものです(参考)。

写真が出てくるまでは、世界を「画像」として記録する役割は、完全に絵画にありました

人の手によって、肖像画として人を記録し、風景画として自然や都市を記録する。
それが当たり前であって、当時の暗黙の了解でした。


写真の登場はそのルールを壊して、絵画の持っていた「記録する役割」を奪っていったわけです。

職を失った画家もいたはずですよね。
特に、肖像画のように、写真に代替されやすい立ち位置であれば、尚のことそうだったはずです。
何時間も同じポーズを保ち、描かれ続けることよりも、短時間で撮影が済む写真の方が負担も少ないですし。

また職や食いぶちもさる事ながら、自分が長年培った技術を否定されるような、拠り所としていた矜持を否定されるような、そんな感覚をきっと持った人もいたはずです。


ただ、それでも、絵画は消えなかった。


✅絵画は何故消えなかったのか?

では、絵画は生き残ったのは何故なのか?
これには、大きく2つの要因があると考えられます。

①絵画の価値を再定義できた

写真が登場し、「リアルに描くこと」の必要性が薄れたとき、記録としての絵画の価値が改めて問われました。

その課題に向き合って、「現実の記録としての絵画」ではなく、作者の内面や感性を元にした「表現としての絵画」にシフトし、再定義したからこそ、写真とは差別化出来ているわけです。

そうして、表現技法の変革から印象派が生まれ、キュビズムが登場することで、更には抽象画と、新しい潮流が広まるに至ります。


②写真も単独では成立しない

加えて重要なのは、写真もカメラ単独ではアートとして成立しなかったことです。

「どういった瞬間を切り取るのか?」、「どのような構図を選ぶのか?」
何をフレーミングして、いつどのタイミングでシャッターを切るか、その意図は人にしか作れない

カメラという新しい技術が生まれたとしても、結局そこに高いレベルでアート性を付与できるのは、人の意図が介在する必要があったわけです。


このように考えていくと、技術の変革が、これまでの価値観や技法に疑問を突きつけても、創作において人がやることは変わらないんですよね。

何故なら技術自体には「創作の視点」が欠けているからです。
世界をどのように捉え、どのように表現していくのか、自分にしかない考えを深めて、咀嚼して、最終的な意図として落とし込むことができない。

だから、絵画でも写真でも、本質的には人が「思索」して、「視点」を与えることによって、創作として成立することに変わりないわけです。


✅生成AIにも「創作の視点」がない

話を生成AIに戻しましょう。
この流れは、生成AIと「創作全般」においても同じことが言えます。

どれだけAIが高性能になって、AGIのようなものができたとしても、
「そもそも何を表現したいのか?」、「誰に何を伝えたいのか?」っていう「創作の視点」は根本的に人間に委ねられています


小説を例にとれば、その物語のテーマを選び、世界観を作り上げ、登場人物にどんな苦悩や喜びを背負わせ、ストーリーとしてどう練り上げるのか、それを決めるのは最終的には人間でしかない。

たとえば村上春樹の『ノルウェイの森』において、「人が喪失とどう向き合うのか」という問いから、「喪失と再生」という視点を物語の芯に据えて、対比を交えながら展開していくような、そういったことはAIには出来ないわけです。

もちろん、生成AIが進化するほどに、人間にしかできない領域が減っていくのは間違いないと思います。
手を動かして調べたり、作り上げたり、そういった汎化性の高い部分は減っていくのでしょう。


だからこそ、人にしかできない領域、つまり「思索して、創作の視点をどのように置くか」がより重要で、より深く問われることになるのだろうと思います。


でも、このことって元より創作活動の本質でしかないんですよね。
創作にあたって人は考えを巡らす。そうして考え抜いた先に閃きがあって、視点の着想がある。
それが創作の本分なのだから。


✅書くことは、思索すること

では、思索を深めるにはどうしたら良いのかと考えていくと、「書くこと」に行き着きます


もちろん、頭の中だけでも考えることはできますが、その深度には限界があります。

脳にはどうしても記憶のキャパシティーがあって、情報を保持できる量と、取り扱える範囲に制約を抱えてるんですよね。
そして、それを超えて思索を深めるならば、「書くこと」が必要です。

書くことで、自分の考えを整理し、曖昧模糊とした思考を、言語として、具体的な形に変える。
同時に、記憶の負担を軽減しながら、思索のためのリソースを外部へ拡張していくことが可能になるからです。

つまり、書くということは、アウトプットとしての側面に加えて、「考えるための行為」 であり、「思索を深めるためのツール」なんですよね。


✅書くことの意義が高まるということ

まとめると、最終的な創作物が、人の手によるものであっても、生成AIによるものであったとしても、「思索して、創作の視点」を作り出す行為は人の手にしかないのです。

それはどうあっても変わらない。

だからこそ、書くことで、深く思索していって、独自の創作への視点を得る必要がある。

このように、生成AIが創作のルールを変革したとしても、「書くことの意義」は消えない。
むしろ増していくんじゃないかなと思うわけです

それではまた


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Alpaka
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