音楽の記憶が「自分史」を肯定してくれる
過去を振り返ることは、けっして後ろを向くことではなく。
自分の歩みを確かめ、これからの自分に様々なヒントをもたらしてくれる作業だと私は思う。
「もう済んだこと。過去のことは忘れる」という考え方もあって、確かに、一瞬は「かなぐり捨てて」「忘れて」前に一歩踏み出さなきゃいけない時もある。
それでも、自分の経験や思いを「なかったこと」にはできなくて、消しゴムみたいに簡単に消せるわけでもなく、自分の中には刻まれているものだなと思う。
酸いも甘いも単なる断片的な「思い出」にとどまらず、その一つ一つが今の自分につながっている。
そんなふうに思えたら、これからの一歩にも勇気がわく。
その助けに「音楽」が大きな力を持っていることを知った。
自分にとって大事な曲には、やっぱりワケがある
最近ラジオで対談させて頂いた音楽療法士・けるぼんさんの「人生のプレイリストをつくる」セッションを受けた。
音楽には、言葉や時間を越える力、根源的な何かを揺さぶってくれる力があることは言うまでもなく。
そんな「音楽の力」を借りて自分史を振り返ってみるプロセスは、予想以上の体験だった。
具体的なセッション手法や体験談は、こちらご参照を。
今回の個別セッションは「私にとって大事な1曲を選び、深堀りしてみる」というお題で、曲選びまでは自力でやってみた。
年齢・時期ごとに大雑把に区切って数曲選び、そこからさらに絞り込み。
好きな曲、思い出の曲。枚挙にいとまがない。
そんな膨大な「私の音楽史」の中から、自分でもどんなリストになるのか予想はつかなかった。
進めていくうち、不思議なことに、懐かしさとか、よく聴いていた、という次元とはちょっと異なっていることに気づいた。
ベースは好きな曲ではあるけど、「当時の私にどうしても外せない」「なんか気になる」「今も引っかかる」「強烈な印象」そんな感覚で絞られていった。
私は最終的に1曲に決められず、どうしても2曲が残った。
ただ、1曲に決めなければならないという正解はなく、あくまでも目安。
「どうしても2曲が残るなら、それも理由があるはず」というアシストを頂き、そこからセッションスタート。
「私にとっての究極の2曲」を、けるぼんさんと深掘りしていった。
1曲ずつについて、曲を聴いたときの当時のシチュエーション、その時の思い、見えていた光景、今感じること、大事に思う理由、などなど曲にまつわる自分の感覚やエピソードを話してみる。
これは、自問自答では限界があり、やっぱり他者に質問されることで、自分でも忘れていたような、思いもよらぬことが思い起こされる。
実際にその曲を一緒に聴くことによって、昨日のことのように湧き上がり、蘇ってくる思い。
それを人に説明し伝えようと、自分の中で必死に言語化する。
見えてきたのは、その曲が持つ、私の人生においての意義。
まるで曲からのメッセージ。
主役は「自分史」であって、「音楽史」ではない
どうしてその曲が大事なのか。
それをたぐると、私の生き方や仕事の原点や大事にしたい価値、本質的な感性や考え方など「自分らしさ」も浮き彫りになってくる。
その2曲は、それぞれ私にとって、対照的な意味あいがありながら、実は根底ではつながっていたことがわかった。
どうしても2曲が残る、どちらかを外せない理由はやっぱりあった。
そうか、だから自分はその曲が外せないんだ、と腑に落ちる。
音楽の記憶(曲名が重要ではないからあえて"記憶"と表現)にスポットを当てることで、隠れた角度からの自己開示や自己認識につながっていく。
隠れた角度といっても、難しいことを聞かれたり答えたりしてるわけではなくて、いつの間にか、忘れていたものが呼び覚まされ、解放される。
音楽の力に、目からウロコだった。
「自分史の肯定」は、ほどけた靴ひもを結び直すこと
こんなたとえ話がある。
靴ひもがほどけてしまったとき。
A. 気づかぬふりして、大丈夫大丈夫、と言い聞かせてそのまま歩き続ける
B. 立ち止まって靴紐を結び直してから、歩き始める
Aは、現実にフタをして見なかったことにして、無理やり「大丈夫」と前を向いてごまかしても、歩きにくいし、転ぶかもしれない。
Bは、いったん立ち止まっても、ほどけてしまった事実に目を向けて結び直すことで、快適に安全に歩けるようになる。
大事なのは、靴ひもがほどけたことではなくて、その現実を受け止めるかどうか。
見たくない、思い出したくない「痛み」はある。
人生には不本意なアクシデントも起きる。
一概には言えないかもしれないけど、実は、「痛み」のほうが「自分史」の大事なポイントになっていることもある。
時間がかかってもいいし、積極的に好きにはなれないまでも、「痛い思いをした自分」を忌み嫌わずにOKくらいは出してあげたい。
「きっと意味があった」と意義づける。
まるでドラマみたいな「伏線」を見つけることもある。
それが、自分史に納得して肯定する、ということかなと思う。
逆に、「そんな経験はなかった」と目をそむけたり、無理やりフタしてしまうような「上辺だけの美化」は、ずっと自分史を否定してウソをついているみたいで、結局は、シックリこない違和感が残り、居心地が悪いなと私は思う。
過去の出来事は、すべてが自分の要素になって、一つの線で今の私につながっている。
どれが欠けても、きっと「私」にならないし、「あの時の思い」が今の私を作っている。
そして、何事も「一足飛び」はないなと思う。
一歩一歩の積み重ねでしか、先には行けない。
そんなことをあらためて教えてくれた、私の音楽の記憶たちだった。