美術作品とエゴイズム〜会田誠氏の作品からみる性差と表現と感受性の違いだけでなく、視点を増やし邪推・憶測し考察する〜
(有料とさせて戴きます。当時と現在における様々な環境の違いや変化を考慮して読んでいただければご理解いただけるものと思います。この邪推や憶測が既に出ている場合は、偶然意見が被ってしまったものとして解釈いただけたら幸いです)
まず、今回のタイトルからみる通り、「邪推・憶測」の言葉を入れている。通常の批評なら起承転結や根拠を元に述べるのが常だが、ネットの情報だけでは当然ながら限界がある。書籍等や各方面の主張も時間のあるうちに拝読したが、どうも自分の中で納得いかない。そのため、自分なりに種々の言葉を並べて文章にたしなめてみたので、主張・分析というより、ぼやきや余計なお世話じゃないの?という感覚で見聞きしていただければ幸いである。また、今回の記事は長文につき、気長に読んでいただきたく思う。この邪推や憶測がきっかけで今後分析が進み、自身の考えが深く考え過ぎで、単なる杞憂である事を願いたい。
2012年に森美術館で開催された会田誠氏の展覧会から端を発した問題は、方々に美術表現における問題を巻き起こした。警察、女性団体、美術館団体と警告や抗議、議論を起こしているが、自身は最初は厄介な芸術家だなとしか思わなかった。むしろ、会田氏の思い通りなのかもしれないとも思った。この問題等がどうだったか思い出したい方は、検索サイトで調べればすぐに出てくるのでここでは割愛するが、少なくとも慣れない人にはセンセーショナルな作品であることをここに断っておく。また、過去の展覧会から5年以上過ぎ、最近問題が沈静化している様にも見えるが、やはりここで整理すべき時だと思い、情報量の絶対的少なさから邪推・憶測となるが美術という面以外の視点から幅広く考察したい。
また、あの時から大分過ぎて、「女性」が「女性の裸体」を写真や絵画で表現するというある記事を見て「女性」が「共感」を覚えたというのには、ある種の違和感を覚えた。なぜか「共感」という言葉に引っかかりを覚えたのだ。その時に会田誠氏の名前を思い出して、性差における考えや感受性の違いなのか、表現方法における問題なのか、自分の中で考えを巡らせた。
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