聴覚過敏持ちの発達障害の僕と音楽
発達障害があり、聴覚過敏のある僕が、どうして吹奏楽団やオーケストラに所属して音楽ができるのか?
何人かの人から訊かれたことがあります。
結論から先に言うと
「音質・音量などひっくるめて吹奏楽の音はこういう音・オーケストラの音はこーゆう音」
というコトを、自分の頭と心で理解しているから。
純粋に合奏形態で音楽が奏でられている状態はまだいいとして、各自での音出し時や休憩時などに「あちこちで楽器の音が鳴るわ・おしゃべりや物音がするわ‥」というシチュエーションがなぜ平気なのか?
それも、自分の頭と心で「それはそーゆーモノだろ」「楽団の中の日常茶飯事なんだから」と理解しているから。
聴覚過敏とは「身の回りの音が嫌悪感や苦痛を抱くくらい気になる状態」のことをいいます。
本来、あるいは多くの人は気に留めないような音が非常に気になったり、不快に感じるくらい大きく聞こえたりします。人によって不快に感じる音は様々です。
僕自身、子どもの時に聴覚過敏を感じたこと・認識したことはほとんどと言っていいほどなかったのです。聴覚過敏をはじめ、感覚過敏は、大人の発達障害のことを意識し始め、診断されてから、少しずつ感じられるようになったと思います。
そして、その場の状況や体調や心理的安定性により症状に波がある、とも感じています。
「大きな音」「騒がしい空間」と一言で言っても色々あります。
巨大なスピーカーがいくつもあって音楽が爆音で鳴るライブ会場にいくとか‥も、はじめはものすごく抵抗感を示します。
それが、自分でチケットを買った大好きなアーティストさんのコンサートなのか、なんでもないパフォーマーさんのライブなのかによっても違います。
でもよほどのことがない限りは、次第に慣れます。
「あぁ、そーゆーモノなんか」と。
「喫茶店でティータイムして過ごす」という状況でも、誰とどう過ごすかによっては、周りの声や食器のぶつかる音や店内BGMがほとんど気にならないときもあれば、ノイズキャンセリングイヤホンをしていてもしんどい時もあります。
混みあったショッピングモールの中に入っていくときも同様です。
初めて吹奏楽の音を聴いたのは、小学校6年生の秋。地元公民館の文化祭。50名クラスの大編成。
「えっ?意外と男の人も多いじゃん‥!」
中学校時の部活動に吹奏楽部を検討に入れることになったきっかけの出来事でした。
そして実際に入部し、狭い音楽室の中で先輩たちの合奏を聴いていたころ、最初は迫力ある音に圧倒されていたけれど、自分も楽器を手にして演奏するうち、耳が慣れていき、すぐに気にならなくなりました。
吹奏楽が・音楽が・楽器が、好きで好きで仕方がなくて、どんなにつらいことがあっても、先輩に交じって朝練に参加しました。
余談ですが、朝一番に楽器庫を開けようと廊下を歩いていると、
「顔ニキすけこまし~どこへゆくの~ カギをちゃらちゃら~部長気取り~」
と、映画「となりのトトロ」の『さんぽ』を替え歌されて部内の同級生から馬鹿にされることもありましたし、
「お前、何しに学校行ってるんだ!(あるいは「来てるんだ!」)」
と言われても
「部活です!!」
と言い返せるくらい、吹奏楽部に燃え燃えでした。
それだけ、大好きでかけがえのないものだった、というのが大きいと思います。
けれど、つい先日こんなことがありました。
所属する吹奏楽団が、「親子ふれあいコンサート」と銘打って、小ぶりなホールで音楽会を開催したのですが、コンサートホールロビーにあたるエントランスホールにちょっとしたブースを設置し、「吹奏楽で使われる楽器を間近で体感してみよう」というコーナーを行ったのです。
各パートの奏者が1~3人集まって、やってきた子どもたちに楽器を見せたり、その場で童謡など簡単な楽曲を演奏したりするのです。
当然、音がたくさん溢れます。それは普段の音出しの時間とか休憩時間と似たようなシチュエーションじゃないか、と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、僕にとってはこれがだめでした。
一人一人やっていることがバラバラ、ではなく、合奏として一つのまとまった音楽を奏でているのでもない‥
「入り口にやってきたお客さんに楽器の音を届けよう」という共通認識はありつつも、みなそれぞれのやっていることがバラバラだと、耳に入ってくる音が「うるさい」と感じてしまったんです。
しかもエントランスホールという響きすぎる空間で、お互いのブースが離れていないという場所設定で、あっちでもこっちでも音が聞こえてくる‥!
いくら心を込めてお客さんへ音楽を‥!というのがあったとしても、耳に入ってくる音としてはダメでした。
「普段はないシチュエーションだった」ていうのも大きかったです。
それだったら、ライブ会場の爆音スピーカーのほうがまだマシです。
嗅覚過敏で喩えて言うなら、単品では許せるインセンスの匂い(香り)が、いくつもの他の香りと、さらには人工的な香りとも混ざって強烈な得体の知れない「臭い」になってしまった‥ような感じでしょうかね。
それと同時に、聴覚過敏持ちのお子さんがここに来たらどうなっちゃうんだろう、という(過度な)心配から、内心ドキドキバクバクしながらいました。「自分が辛いから、子どもたちのほうがもっとつらくないか心配」というのが先にキた、という感じです。
来てくれた子どもたちは、おそらくは楽器の生音は初めてで、親をはじめとした大人に連れてきてもらって、(吹奏楽の)音の世界を体感したのでしょうけれど、僕と同じように聴覚過敏の特性を持っている子からしたら、めちゃくちゃ耳に辛い場所だったのでは?
もしそんな子がいたら、せっかく連れてきたお父さんお母さんがげんなりするだろうな‥とか。
僕は発達障害を持っている一人の者として、そのような聴覚過敏持ちの子たちの立場になったときに、コーナーにいた自分も耳や心がざわざわし始めたんです。
とある女の子は、僕の楽器を見せて、童謡「ぞうさん」を吹いたら、めちゃめちゃ喜んでくれて‥ほかのパートのアンサンブルを聞いたり、市のオフィシャルキャラクターの着ぐるみに触れたりしているときも、飛び跳ねて手を叩いて喜んでいて、本当に心から楽しんでいる様子を見て「あぁ音楽を全身で感じている子どもって本当かわいい!」て思いながら見ていました。
ちょっと恥ずかしそうにしていたり、赤ちゃんだったりして、興味や反応はイマイチ?な子もいましたが、幸い、耳を塞いだり、「うるさーい!」の叫んだり泣いたりする子はいませんでした。それ自体がほんと奇跡じゃないかって。
なんとか頑張ってやり切りましたが、「ホントよくやれたナ」と思いました。
正確には、子どもたちと触れ合っていくうちに気にならなくなっていった感じです。
「余計な音はいらないから聞こえなくしよう」という脳のフィルター機能がしっかり働いてくれたから、というのがあるのでしょう。
そして、メインの音楽会のほうは、午前午後の2回公演で大変でしたが、どちらも子どもたちや親御さんの笑顔がとても印象的で、達成感のある本番になったと思います。
今回のことを音声SNS「clubhouse」内の、いつもお世話になっているコーチ的存在の方にお話ししたところ、こんなコメントをいただきました。
音楽を届けるときに「乱暴な心境で演る」人や「楽器にストレスをぶつけて吹く人」「やけくそ気味にフォルティシモの音を出す」人は、基本いない、と思うの。
「楽しい!」「自分は楽しんでるよ!」という気持ちを届けるものよね。
で、子どもたちも、発達障害の聴覚過敏持ちの人も、「音そのもの」よりも「そこに乗っかっているモノ(気持ち)」に対して、敏感なんだと思うの。
「音がデカかったからうるさい」と反応するんじゃなくて、その音に「気持ちが乗っかって」いて素晴らしかったから&音・音楽を自分から楽しもうとする子どもたちばかりだったから、拒否反応を示す子どもたちがいなかったんじゃないかしら?
街中で流れる音だって、人間が奏でている音や音楽ばっかりじゃないし、無機質な音がほとんどだし、中に何が入ってるかわからないじゃない?
受け取り手の問題もあるかもしれないけれど、届ける側の気持ちが一つにまとまっていると、「うるさい」って感じなくなるんじゃないかしら?
人によって受け取るモノは全然違うし、音楽が好きな人も嫌い・苦手な人もいるだろうけれど、いろんな人の条件を全部自分一人でクリアしようとしたってできないからね。
「子どもたち大丈夫かな」って思うことは、にしむーの優しさゆえなんだと思うけど、にしむー自身が「自分のざわついた気持ち・感情をコントロールできた」ということが、すごく大事なコト。
にしむーは優しいがゆえに、他人の心のひだまで多くを(全部を)理解しようとして、「なんとかできたら‥!」と思うのもすごく素晴らしいんだけど、一番大事なのは、自分の心がぶれないように、ある意味「鈍感力」を身に着けて、自分が傷つかないということができていくといいのよ。
もう傷つき続ける必要はないの。
自分が傷ついた過去の経験があるから、もうこれ以上傷つかなくても人の気持ちには寄り添えるから。
どんどん鈍感になっていって、傷ついている人に、
「そーゆう人もいるよね、そーゆうこともあるよね、自分も過去そうだったよ。でもクリアしていくコトもできるんだよ」
て言ってあげられる人になっていけばいいのよ。
最後までお読みいただきありがとうございました。